大久保彦左衛門忠教
    (おおくぼひこざえもんただたか)

      (1560〜1639)

 

一心太助らの担ぐ「たらい」の駕籠(かご)に乗り颯爽(さっそう)と江戸城に登城、将軍家光(いえみつ)に諫言(かんげん)を呈し老中幕閣(ろうじゅうばっかく)に物申す。講談や芝居などに登場する「天下のご意見番」。大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん)とはどのような人物なのでしょうか。
 彼は松平譜代の家臣 大久保忠員(ただかず)の八男として永禄3年(1560)現在の岡崎市上和田町に生まれます。天正3年(1575)、15歳で18歳年長の家康に浜松で仕え、翌年、遠江国犬居城(とおとうみのくにいぬいじょう)攻めを初陣(ういじん)に、長兄・忠世(ただよ)、後に忠世の嫡男・忠隣(ただちか)の配下として多くの合戦で手柄を立て、忠隣改易(かいえき)後は家康に駿府に召され、家康の直参(じきさん)に取り立てられました。
 元和元年(1615)の大坂夏の陣では家康旗本の槍奉行(やりぶぎょう)として出陣。合戦中、大坂方の猛攻に慌てた旗奉行が、家康の旗印(はたじるし)を一時的に放り出して逃げた「御旗崩れ」の一件が戦後に問題になり、「絶対に立っていなかった」という家康に対し彦左ひとりが「旗はずっと立っておりました」と、徳川家の面目のため最後まで言い張ったという逸話からも、彼の頑固一徹、忠義一筋ぶりが伺い知れます。
 この大坂の陣の功により、後年、彦左衛門は旗奉行に任じられ1000石を加増、父祖の地である三河(現岡崎市竜泉寺(りゅうせんじ)町、桑谷(くわがい)町、生平(おいだいら)町と幸田町坂崎)に知行地(ちぎょうち)を賜っています。
 2000石の小身旗本ながら、彼を現在まで著名たらしめたのは、大久保一族や譜代の三河武士たちの徳川家に対する忠節などを子孫に伝えるために60歳を過ぎてから書き始めたという「三河物語」の存在です。1622年に草稿本(そうこうほん)が完成、門外不出とされながら当時から盛んに筆写・流布されたようで、これが小説化、芝居化されるにしたがいどんどん虚像が加えられ、心得違いがあれば将軍すら叱りとばす架空の彦左衛門はいつしか江戸庶民の痛快なヒーローと化していったのです。
 家康、秀忠、家光の三代に仕え、戦国乱世から天下泰平への激動の時代を生き抜き、寛永16年(1639)に79歳で世を去った最後の三河武士 大久保彦左衛門は、祖父・忠茂(ただしげ)、父・忠員(たたかず)らも眠る一族の菩提寺(ぼだいじ) 長福寺(ちょうふくじ)(岡崎市竜泉寺町)にて、後の世を生きる私たちの生き様を今も叱りとばし続けているのかも知れません。

 《参考》「三河物語(教育社)」、「新編岡崎市史」、「岡崎の歴史物語(岡崎市)」「幸田町ホームページ」ほか 

戻 る