徳川三代をささえた三河武士 vol.7
平岩親吉(ひらいわちかよし)1542〜1611
 家康の男子を養子に与えられた唯一の家臣、平岩親吉。
 平岩氏は河内国弓削(ゆげ)氏の出といわれ、平岩氏4代の重益(しげます)のときより松平氏に仕えます。
 親吉は、平岩氏5代・親重(ちかしげ)の嫡男として天文11年(1542)、額田郡坂崎(現幸田町)に生まれます。家康と同年齢で、幼時から家康に仕え、天文16年から永禄3年(5才〜18才)にかけての織田・今川の人質時代にも随行し、多感な少・青年期の苦楽を共にします。
 家康に長男・信康が誕生すると、傳役(もりやく)に任じられ、岡崎にあって補佐にあたっていましたが、信康に武田方への内応の嫌疑がかかり、信康は織田信長より切腹を命じられてしまいます。「かるがるしく腹を切らせてはきっと後悔されるでしょう。−中略− 私の首を切って一時も早く信長にさしあげよ」(三河物語)と親吉は身代わりを嘆願しますが許されず、責を感じて謹慎。後、家康の再三の要請を受け再出仕し、小田原攻めに戦功をたてるなどの活躍で、関ヶ原戦後は甲斐国甲府6万3千石を賜わります。
 家康の親吉に対する思いは厚く、子のない親吉に、家康は八男の仙千代を養子に与えます。しかし慶長5年(1600)、仙千代は5才で夭折(ようせつ)。その後、親吉はあえて養子を迎えませんでした。そして慶長8年、今度は家康の九男・義直(よしなお)の傳役を命じられ、同12年(1607)、義直が尾張54万石の太守となると付け家老として犬山で9万3千石を与えられ、尾張徳川家の基礎固めに尽力します。
 慶長16年(1611)、家康に先立つこと5年、69才で死去。葬地は親吉創建の名古屋平田院ですが、平岩家代々の檀那寺(だんなでら)である妙源寺(みょうげんじ)(岡崎市大和町)にも墓が残ります。
 家康の厚い信頼を得ていた親吉は、家臣であるとともに、家康の良き友だったのかも知れません。


 {参考}「新編岡崎市史」、「三河物語/大久保彦左衛門(教育社)」、「歴史と旅・大名総覧(秋田書店)」、「岡崎・額田の歴史(郷土出版社)」他


    平 岩 親 吉

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