■徳川三代をささえた三河武士  vol.5

 本多重次(ほんだしげつぐ)(1529〜1596)


「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」

 三河一向一揆を平定し、三河一国の領国経営に乗り出した家康は、永禄8年(1565)、温厚な高力清長(こうりききよなが)、気性の激しい本多作左衛門重次、何事にも公平な天野三衛康景(やすかげ)の3人を三河三奉仕として置きましたが、そのバランスのとれた人事の妙を人々がこう謳(うた)い囃(はや)したといいます。
 鬼作左(おのさくざ)と異名をとるほど恐れられた重次ですが、勇猛果敢、頑固一徹で忠義一筋の三河武士のひとつの典型のようにもいわれ、戦陣から妻に送った有名な手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」からも無駄を省く合理性をもった人柄が偲ばれます。
 重次は、松平2代泰親(やすちか)に仕えた本多助時(平八郎家初代)の兄弟・正時の次男 信正の子の重正(大平に居住)の嫡男として誕生し、6才で松平清康に仕え、広忠、家康の三代に歴仕。岡崎城主の家康長男・信康が武田氏内通の疑いで退けられた天正7年(1579)と、西三河の旗頭で重臣だった石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔した天正13年の2度にわたり岡崎城代に任じられたことでも、家康の信任の厚さがうかがえます。
 天正14年(1586)、関白秀吉は家康の上洛を促すため、家康に嫁がせた妹の朝日姫を見舞う名目にて実母の大政所を人質として岡崎に下向させたとき、重次は大政所(大政所)の宿舎の廻りに薪(たきぎ)を積み上げ、上洛した家康に万一のことあらば焼き殺さんとしたため秀吉の不興を買い、4年後、小田原攻めの途路、岡崎に立ち寄った秀吉との面会も拒絶したため秀吉の怒りにふれ、家康関東移封時に上総国(かずさのくに)古井戸に閉居となり(重次61才)、その後下総国(しもうさのくに)井野に移され67才で逝去しました。
 嫡男のお仙こと仙千代(成重)(なりしげ)は、後に家康の次男・松平秀康の嫡男 忠直の家老を経て越前丸岡藩主となり4万3千石を領しています。

《参考》新編岡崎市史、戦国人名辞典(新人物往来社)、歴史と旅・大名総覧(秋田書店)他

本多氏の産土神(うぶすながみ)・犬頭神社(岡崎市宮地町)に立つ生誕地の碑。
館のあった岡崎市大平町の生まれともいわれます。(写真:左)
本多重次像(写真:右)   


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