■徳川三代をささえた三河武士 vol.4

大久保忠隣(おおくぼ ただちか)(1553〜1628) 

大久保氏は、三河国碧海郡上和田郷(現岡崎市上和田町)を本拠に、松平三代・信光の頃から松平氏に仕えたといわれる譜代の家柄で、一族から多くの功臣を輩出しています。
 忠隣は、家康の側近にあった大久保党の総領 忠世の嫡男として上和田に生まれ、11才のときから家康(当時22才)に仕えます。遠州堀川城攻めに15才で初陣以来、多くの合戦で奮戦し、大敗した三方ヶ原の戦いに19才で臨んだおりには、馬を射られて歩行となり、傷を受けながらも家康の馬から離れずに守り従い、家康の大きな信任を得たという逸話が伝わります。
 関ヶ原戦後、二代将軍は誰にすべきかを家康が重臣達に問うたとき、忠隣ひとりが「守成の君主として適任」と三男 秀忠を強く推し、その秀忠が家康から二代将軍に指名されたことから、忠隣は将軍側近宸Pの地位を得、草創期の幕府に重きをなします。
 また、大久保の姓を与えた配下の長安が佐渡などの金山奉行として突出した能力を発揮したため財政面でも裕福で、面倒見がよく、過半の幕臣から大きな信望を得ていたといわれます。
 しかし慶長19年(1614)、キリシタン取締りの命を受け京に出張中に突然改易され、以後近江国の配所で静かに15年の余生を送ります。政敵の本多正信・正純父子の陰謀とも二代将軍秀忠を凌ぐ人望を家康が警戒したとも言われますが真実は闇の中です。
 孫の忠朝は老中を務め、小田原11万3千石を領し、子孫は代々小田原藩主として明治維新を迎えます。戊辰戦争では元箱根で新政府軍と一戦を交え、三河譜代の意地を見せています。
上和田町に建つ大久保氏一族発跡地の碑。
忠隣より7才年下の大久保彦左衛門もここで生まれました。



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