三河花火の歴史

 岡崎市の観光夏まつり花火大会は、昭和23年8月16日に初めて行われ、以来年々内容も充実し、本年も盛大に挙行される運びとなりました。
 さて、花火は昔から岡崎を中心とした三河地方に普及発達し、全国に三河花火の名をほしいままにしておりますが、ここで三河花火の発達の歴史をたどってみましょう。
 現在の花火(煙火)は、もともと軍事上の火術から始まったもので、その過程で派生したものが鑑賞用に変化したものといわれております。
 昭和44年に発刊された「三河煙火史」の記述によると、「天文12年西洋式鉄砲及び火薬の伝来により、鉄砲は大筒をうみだし、各武将によって改良が加えられ軍事的武器へと発達し、その重要性と秘密性はますますその度合いを深めていったのである。その中でとくに昔から火術に関係の深かったのが三河地方で、戦国時代において三河武士が千軍万馬の間にその有名をはせたのである。
 徳川家康は、早くより火薬の威力を利用し、三河の青年武士からなる鉄砲隊を編成するとともに、細川家を追放された稲富流砲術師範・稲富伊賀守直家を召し抱えて、鉄砲鍛冶の指導にあたらせた。さらに津田流砲術の根来衆を加えてますます鉄砲・火術の拡充をはかり、より強大にしていったのである。
 かくして天下統一の偉業をなしとげたのである。
 反乱や一揆に対し必要以上に神経過敏であった家康がもっとも恐ろしい殺人武器である火薬およびその主剤となる硝石の採取などを幕府発祥の地である三河のみに限らせ、かつ三河においてのみ製造貯蔵を奨励したのは、全く当然のことであり、ここにおいて「お国もの」の特権が生じたのである。
 徳川家康の開府後は、各藩の鉄砲・火薬の製造を厳重に制約され「お国もの」の特権は更にその強大さをほこっていったのである。
 徳川300年の泰平の時代になるに至って、稲富流の砲術・火術である軍事用の火術は重要性が弱まり、平和の煙火へと変化し、稲富流火術は稲留流煙火となり更に分派して稲穂流をはじめその他多数の流派をうみだしていったのである。
 三河ものの特権がついには三河煙火の発生となっていった。稲富直家に教えを受けた三河国岩神村の沢田四郎右衛門が、その技術を受け継いでついには稲留流煙火の元祖と言われるまでにいたった。
 慶長17年(1612年)に足助八幡社に奉納された扁額、「扇的打図」に「尾州藩稲留派先生当国住岩神村沢田四郎右衛門行年78才」とあり、その間の関係を物語っている。」
 鑑賞用の花火としては、イギリス国王から江戸将軍に国書とともに花火が贈られ、慶長18年(1613年)8月6日の夜、江戸城二の丸で二代将軍秀忠が国使歓迎の花火を諸大名とともに見学したという記録もある。
 それから更に、120年後の享保18年5月28日には、江戸両国の川開き花火が始まり、それからずっと花火が作られ、打ち上げられ事故がおき、禁令がだされるということを繰り返したようである。
 慶案元年(1648年)、寛文5年(1665年)、寛文10年(1670年)などにも花火禁止令がだされ、江戸中では、花火は全く行われないようになり、漸次地方へ移っていった。
 また石見国(島根県)浜田城主から岡崎城主になった本多中務大輔忠粛が着任のあくる年の明和7年(1770年)11月に領内一統に花火など無用の事と禁令をかたくしたが、長くは続かなかったと岡崎市史に記述がある。
 菅生天王社(明治維新後菅生神社)の花火まつりは、特有の技術を加えて云々と市史に一文がある。これは金魚花火のことをいっているのではなかろうかと思われる。水中に放射された花火の華麗さは、これまでの花火の概念を破ったもので、岡崎の金魚花火は有名になったようだ。
 菅生神社の氏子の祐金町は特に金魚花火を得意とした。この町には「研せん」という金魚花火づくりの名人がいたという。(その墓石は同町善立寺にある。)
 明治4年の菅生まつりの花火は、殿橋の上流、下流に7艘のほこ船を浮かべ、見物のため大小の舟30艘が、このほこ船を取り巻い、手筒、大筒、金魚花火や三寸玉を打ち上げたという。当時は川の水も矢作川下流改修以前のため多かったようである。
 明治初年には、奥殿藩の萩野流砲術皆伝の奥殿町の中根泰蔵が花火一光流をあみだし、同じ奥殿の加藤滝蔵は熊野流(稲留流の分派)をつくり、細川町の永坂専治郎は専海流の始祖として花火を勃興させた。
 これらの流派は、東加茂を中心に、額田、西加茂、説楽の各郡に大勢の門人をもち、前に記述した東加茂郡盛岡村岩神の沢田四郎右衛門という稲留流の教えもありこの地方で花火師が続々と養成されたようである。
 岡崎地方の花火屋さんとしては、稲留流の分派で最明寺派に属した西尾市羽角の加藤煙火のほか、島清花火や稲金花火は武田流といわれ、武田家滅亡後、三河に住み着いたものや、徳川方から武田方へスパイして得た技術かもわからないが、文政12年(1829年)8月の「武田流火術証文の事」という古文書が現有しているのも、これらの消息を物語る資料であろうかと思っている。
 結論としては、三河花火は徳川譜代の三河の若者たちが、砲術、火術の秘法をまもり、藩とか天領という幕府直轄地や旗本領という狭い枠の中や、時には枠外の僻地で命脈を保ち、年に一度の祭礼を晴れの舞台として情熱をたぎらせつつ三河花火を今日に伝え、貴重な文化遺産となったものということがいえるであろう。
 戦後、岡崎市は観光発展のため菅生神社の祭礼と相まって夏まつりを大々的に計画し、観光夏まつり花火大会と銘打って花火の絆を集めた打上玉、手筒、金魚、大仕掛など岡崎の恒例行事の一つとして現在にいたり、日本でも有数の花火大会となっているのであります。

おかざきの花火ガイド=岡崎の花火のすべてがわかる=

おかざきの花火大会は毎年8月の第一土曜日です。是非ご覧ください。


「4号・5号玉の早打ち」
1本の筒から、連続的に2,30発くらいの玉を打ち上げます。2時間半で総数2千数百発が、夜空に菊、牡丹、椰子、ダリヤと、さまざまな花や模様を開かせます。
「8号・10号の親子(対打)打ち」
第二会場の矢作川河畔では、腹にズシリと響く重低音を轟かせながら、320メートルもの大輪を咲かせます。
「仕掛花火」
あらかじめ組み立てられた木枠に、工夫をこらした絵や文字を花火で描いてゆきます。長さ約50メートルの大規模なものや絵が動くものまでその数27基。仕掛王国、岡崎の真骨頂です。
「スターマイン」
連発と呼ばれるもので、筒をたくさん並べて導火線で順次点火し、何百という花火が、短時間に連続して打ち上げられます。現代の花火大会の花形となっており、本大会では仕掛裏打ちスターマインも含め58台が次々発射されます。
<笛雷スターマイン>薄暮の中、カン高い笛の音と、バリバリという雷鳴が、会場いっぱいに響き渡ります。
<噴水スターマイン>乙川の大噴水を表現したもので、花火で大きな弧を描き、中心からは流星が立ち上がります。
<斜交スターマイン>別名スタークロスと呼ばれる斜め打ちで、長く火を曳いた光が、鮮やかに交わります。
<水上スターマイン>乙川に浮かんだ、7艘のいかだから、一斉に乱玉が吹き上がっていきます。 <メロディスターマイン>音楽にあわせて、曲のテンポや音の強弱に秒単位でマッチングさせ、コンピュータ制御の電気着火により、趣向を凝らした花火がまるで生き物のように夜空に浮かび上がっていきます。
<水上百花園>乙川の水面に花火の花園が映えます。
<地 割>大空に打ち上げる玉を地上で開花させるため、花火の半球が一面に広がります。
「金魚花火」
長い歴史を持ち、三河に今も伝わる水上花火。川面の四方八方に、金魚が泳ぎまわるように、赤・緑・銀の光がパチパチと音をたてて漂います。
「大のし」
川沿いに横一線、並べられた110本もの大筒から、一斉に火柱が吹き上がる様は圧倒的な迫力です。
「火 車」
真っ赤な火を噴き出しながら、大小25台の大火輪が豪快に回ります。
「銀 滝」
一般にナイアガラの滝といわれているもので、川をまたいで、300メートルにわたり火の粉が降り注ぎます。
「乱 玉」
あらかじめセットされた数千本もの細い筒から一斉に7色の星がにぎやかに噴き上がるさまは圧巻です。


玉の大きさ4号玉5号玉8号玉10号玉
玉の直径 センチ  12 15  24  30
玉の重量 kg 0.5  1  4.5   8
到達高度  m 160190 280 330
開花の直径 m 150180 270 320
(出典:岡崎市・岡崎市観光協会発行97年花火大会リーフレットより)