第4回産学研究会議事録




平成11年11月24日  岡崎学園国際短期大学 401号室 出席者28名

挨拶と併せて、来年4月の開学を目指す人間環境大学(現在文部省に申請中)の概要につき説明。
岡崎学園国際短期大学 国際文化学科 教授 石上 文正 氏


講演1「小売業態の革新と顧客満足」 ― 米国における消費者行動を中心に ―
講師 岡崎学園国際短期大学 英米学科 助教授 岡本 純 氏

1.米国小売業の動向
 過去3〜4年アメリカのいろいろな研究をしておりまして気づいたことを申しますと、アメリカの小売業の中心は、ショッピングセンターで、これを中心として市街地が活性化されてきたということができます。
 アメリカの小売業の変化は、この10年、ものすごい速さで変化してきております。どう言うふうに変化してきているかというと、スクラップ&ビルドという形で新しい業態が生まれては、それがいつのまにかなくなってしまう、ということを繰り返して、次々とまた新しいものが生まれてきております。
 日本にもこれらが2〜3年遅れで、新しい業態という形で入ってきた。例えば、ダイエーのハイパーマートを見てもわかるように、ハイパーを子会社化して、もう1度GMSといわれている一般的なスーパーに戻してゆくという流れは、アメリカの場合は既に5年以上前から起こっています。ハイパーは顧客満足という面から見て、従業員が少ない、もしくは、顧客が店舗を回っても分かりづらい、ということで衰えていった業態の1つであります。
ある意味では、アメリカの小売業を見て行くということは、日本の先々の小売業態、もしくは、小売業の流れがある程度わかってくるということになります。
 そこで、今回は次の5つの視点によって、そのの変化を眺めてみることとします。

@環境変化のなかで―アメリカは大きな環境変化を迎えておりますから―人々がどのように変わっていっているのか。
Aそれに対応して小売業がどのように変革されてきたか。
Bさらに、小売業態の歴史とその発展過程を見ながらショッピングセンターを中心として街づくりがどのように変わってきたか。
C具体的な活性化プランの事例。
Dまとめとして、商店街・市街地の活性化がどうして成功したのか。

 まず、小売環境の変化について見てゆくこととします。日本でも最近様々な形で「消費者が見えない」とか「生活者がどのような動きをしているのかわからない」、「物が売れない」ということをよく耳にしますが、アメリカも過去10年にわたって小売環境の変化という形で、生活者が大きく変ってきているということがいえます。
その1つとして、高学歴化を挙げることができます。4年制大学への進学率が25%(1997年)と大幅に向上し、それに伴い「物に対する見方がシビアになる」といわれています。これは、しっかりとした自分の価値観や見方をもつ人の比率が増えていることを示している。もしくは、人に対して流されない人が増えてきている。確固たる自分の意思を持つ人が増えてきたこと。
2番目としては、ベビーブーマーの後、子どもがだんだん少なくなって、労働力が不足してきたこと。
3番目は、男女雇用機会均等法ができ、女性の管理職が大幅に増え、女性向の仕事も増えてきていること。
4番目は、核世帯化、世帯構成人口の減少、単身世帯の増加などによりアメリカの生活者・消費者像が大きく変わってきていること。
5番目は、1970年代以降、白人以外の人種が、様々な形でアメリカ国内に入ってきたことにより、考え方や食生活等の異なる人々が増えてきたこと。
これらがアメリカの生活者の変化の特徴として挙げられる。
 また、アメリカは、日本より早く高齢化社会を迎えていますし、ベビーブーマー世代は成熟化し、40〜50才代に入ってきている。同時に、ジェネレーションYという、団塊世代の子供のもう少し下の世代が増加し、考え方がそれまでの典型的なアメリカ人と大きく異なるという兆候が現れている。それは、モノに対しても自分の価値観に対しても、そうした現象が大きく現れてきている。
従来、カウチポテト(couch-potato=外に出ず家庭でくつろぐのが何よりの楽しみ)という言葉を耳にしていましたが、現在では死語となっており、今は、コクーニング(cocoon=繭化)現象、これは、一人殻に閉じこもって、コンピュータをたたいて、コンピュータに話しかけている、という現象が顕著になっている。
以前よりレジャー志向が高まっており、個性化、多様化、情報化ということで、ある意味では2極分化の方向性が大きく出てきているというのがアメリカの消費者の変化といえる。
2つ目の小売環境の変化ということでは、アメリカは日本と異なり、企業の買収、吸収、合併は、必ずしも大きいところが小さいところを呑み込むばかりでなく、小さなところが大手を買収、吸収、合併するケースも少なくなく、こうしたことによって、小売業の環境も、大きく変化してきている。
 それでは、アメリカの小売業がどのような革新性を持ち、変化してきたかについては、アップスケール化、2極化、自然志向、エンターテイメント、アメニティ、タイムバリューといった言葉で表すことが出来る。

2.小売業態の革新
アップスケールとはどういうことか、結局のところ小売業は、価格訴求型=ディスカウントストアが1980年代の主流であったが、それだけではだめになっている。それは何故かというと価格だけを前面に打ち出して行けば、ハイパーの例が示す様に、より安い価格で他から参入してくることから、1セント、2セント安いという違いだけではそれほどの効果は持続できず、最終的には共倒れとなる。顧客も新しい業態が出来れば、そちらにいってしまう。従って、価格のみの訴求の時代は終わり、生活提案型のディスカウントストアがどんどん増えてきている。
ハイパーのように、天井を広くして、照明もデコレートしない、店員もそれほど配置していない、これではどうしようもないということで、例えば、同じ値段であっても、店員をきちっと配置し、寝具売り場であればそこに部屋を作り、寝具のある部屋を見せることによって、生活者がどういうイメージで生活を行って行けるかという事まで見せて行く。他の例でいうと、車のディーラーに行きますと、車を単に展示するのでなく、車とコーディネートする商品を実際に見せ、購入者の意欲を盛んに掻き立てます。
日本でもカテゴリーキラーという形でトイザラスなどがどんどん入ってきておりますし、新しい業態としてアウトレットモールも生まれてきている。これらは、単にカテゴリーキラーとして専門品を置いて行くだけでなく、玩具店が赤ちゃん用品全般をおき、赤ちゃんと同時に大人に対してどのようなコーディネートを行うかという生活提案をすべて行い、幅広い領域でグレードアップし、すべての生活環境を整備するような店舗が主流となってきた。
 もともとアメリカでは6大階層に分類されていたが、2極化については、高所得、低所得のすみわけではなく、自分にあったかたち、例えば、お金持ちであっても、この製品、この分野では安いもので良いという考え方が生まれてきている。大は小を兼ねるといいますが、大きければ良い、小さければ良いという問題でなく、大きいものには大きいものの良さがあり、小さいものには小さいものの良さがあるというような2極化現象が出てきた。
 アップスケール化と同じような形になるが、小売業の中にエンターテイメント性、アメニティなどが大きくクローズアップされてきている。物を買うということは楽しいことだ、それを演出するのが店舗で、店舗に行くのは楽しいことだというのが、小売業の革新のポイントとなっている。
もともとアメリカの場合は、ショッピングセンターが主流で小売業が発展してきているが、近年は、例えば、タイムバリュー(時間的価値)をものすごく意識している消費者が出てきている。ネーバーフット、コミュニティ、リージョナル、スーパーリージョナルという様々な規模のショッピングセンターがアメリカにはありますが、2極分化というと、中間規模が存在感をなくし、小と大に分かれてきたといえます。何故2つに分かれてしまったかというと、例えば、日用的な商品を貴重な時間をかけて買いに行くことに対する抵抗感が強く、近くで買い物を済ませる。それに対して、より大きな規模のショッピングセンターは、なにか買物しようというよりは、1日楽しんでこようという目的に合致するエンターテイメント、アメニティが用意されている。
特に、最近急激に伸びている小売業態は、アウトレットモールで、日本でも盛んに出てきております。アウトレットモールとは、もともとはメーカーが吐き出した商品を安く売って行くというものだったが、現在では、デパート、スーパー、様々な小売業主体が様々な商品を安く売って行く。特に、デパートは定価販売で売れ残った商品を、この業態で売りさばいて行く。こうしたものは、元々小さな吐き出し品を販売することから始まっているが、現在では、極端に小さいところと、極端に大きいところの2極に分化する傾向が出てきた。
そうした中で、一般的小売業は何をしているのか。スーパーとか小売店で言えば、顧客の組織化が日本以上に進んできており、このことが今の小売業の革新性を支えてと言って過言ではない。日本でも最近になって「ワン・ツーワン・マーケティング」とか「リレーションシップ・マーケテイング」と言う言葉が盛んに使われるようになった。これらは、いかにつかんだ顧客を放さないか、又は、月に1回来てくれる顧客、5回来てくれる顧客、10回来てくれる顧客を同じに扱うべきでない。金額ベースで言えば、高いものを買ってくれる顧客と、安いものしかかってくれない顧客を同じに扱うべきでない。同じでない顧客に、今までと同じようにダイレクトメールや折込みチラシやを送ったり雑誌広告を載せてもそれほど効果がない。特に、アメリカの場合は、顧客の組織化を徹底して行なうように変わってきた。
一例を示すと、ある地方の小さなスーパーマーケットですが、ここでは商品の値札に価格が3種類付いている。一番上の価格は一般的な(初めてきた)客向けのもの、二番目・三番目は、顧客の月間購入金額によって金額を2つの分けて表示している。何故この様にしているかと言えば、顧客の固定化を図る為です。日本でも、こうした手法を取り入れる企業が増えております。アメリカの場合は、徹底してこういったことを行なっている。
同じように、先程タイムバリューについてお話し致しましたが、レジを購入品目数により分け、沢山購入してくれる顧客のレジ処理時間を短縮するサービスも徹底して行なっている。顧客によって価格を変えることや、一度に沢山買ってくれる顧客の利便性を高める(クイックサービス=購入品の入ったカートを渡すと、レジを打って、店員が車まで運んできてくれ、そこでクレジットカードを提示して精算する)。アメリカの小売業は、顧客の組織化を徹底的に行なう一方で、時間に厳しい、時間がもったいないという顧客に手厚いサービスを行なっている。

3.米国小売業の歴史
次に、アメリカの小売業は、どのように発展してきたのか。
アメリカの小売業の発展は、1930年代が基準になっていると言われている。これは、自然発生的に出来た商店街で、住宅地が出来てそこに商店街ができ、アーバン地域という市街地が形成され、そこにダウンタウンが生まれ、デパートや専門店が生まれてきた。
1945年以降、ベビーブームが始まり、市街地から土地の安い郊外へ住宅が広がっていった。ダウンタウンでは商店への建築等の規制が厳しく、また、フリーウエイの建設も始まり、人口のスプロール化現象が始まり、郊外にも都市機能・コミュニティーが確立していった。1948年に最初のショッピングセンター登場することによって、アメリカの小売業は様変わりしてゆく。1950年代から1970年代にかけて、より郊外へ向けて発展していった。
そうした流れの中で、ダウンタウンは、特に1970年以降、明らかに商店街の衰退化が進み廃虚と化していった。その中で、1970年代に入って、政府による都市の再開発が始まってきた。そこで行われたのは、商店街のモール化、アーケードの設置、ベンチや小緑地の設置、車両の侵入規制を行い商店街から車を締め出すといったことでした。しかし、こうした試みは、ほとんど成果を上げることが出来ず、お金を使えば使うほど早く衰退していった。何故成果を上げることが出来なかったかというと、商店街は人為的に造ったものではなく、核となる店舗が存在しなかったことがあげられる。また、駐車場が明らかに不足しており、店舗自体にまとまりもない。こうした中で、再開発を行なっても、店舗自体が変わってゆかずに、ただ単に、店舗の入り口に新しいドアをつけたり、ライトをつけたりしても、それほど顧客吸引力強化につながらない。同時に、各店舗がバラバラで、統一的プロモーションもまったく出来ていなかった。
 そこで政府は、1949年からスリム・クリアランスというかたちで、荒廃した市街地を住宅地に戻そうという試みがなされた。アメリカはコミュニティの活動が確立しているので、ボランティア活動を含めて、自分の住んでいる周りのモーゲージ(資産価値)がさがってしまうと、土地を売って外へ出るときに、資産が目減りしてしまう。従って、自分の住んでいるところを何とか良い場所にしたいということで、スラム街から脱却しようという法律が出来たわけですが、ほとんどのところがうまく行かなかった。
 1954年にもう一度、アーバン・デベロップメントというかたちで都市再開発を行ってゆきますが、これもほとんどうまく行かなかった。アーバン・リニューアル(都市の更新)という考えに基づき、住宅法を改め、商店街を生かしなさい、古い店舗を修復して保存しなさい、ということで補助金若しくは低金利の融資を行った。この結果、古くなった店舗をたたんで、郊外に移転(移住)することでそこの場所はリニューアルしたが、商業機能の活性化にはあまり機能しなかった。
 1968年にも総合コミュニティ開発ということで、1968年度住宅法ができて、今度は、教育、文化、雇用促進等についてのコミュニティの計画として、商務省、経済開発庁が入ってきて、経済開発プログラムという名の下に資金助成、融資を行い、積極的に参画してきた。この頃になると、少しずつ効果が出始めてきた。特にその中で、1968年以降の都市開発の推移の中で、どういったことを行えば再開発をうまく行うことが出来るかについての法則性が浮かび上がってきた。
それが、HOPSCAの原則、少なくともPRSの原則であります。HOPSCAの原則とは、市街地を活性化するために、

@ホテル=まずホテルを作りなさい、
Aオフィスビル=昼間人口を確保するためにオフィスビルを建設しなさい、
Bパーキング=無料駐車場を造りなさい、
Cショッピング=大型の核店舗を誘致しなさい、
Dコンベンション=娯楽や会議機能を持つ施設を取り入れなさい、
Eアパートメント=住宅建設を行い夜間人口を増やしなさい、というものです。

 1970年代に、この原則を忠実に守って都市開発を行い、成功事例といわれているのがロサンゼルス地区にあるサウスコーストプラウダです。ここは、もともと商店街でしかも黒人が多く住んでいた所で、黒人を排除するのでなく、黒人を含めたコミュニティ・街区をつくってしまうというものです。セキュリティ面でもかなりしっかりしたもので、店舗だけではなく、ホテル、コンベンション、アパート、高齢者用住宅など全て入っている、1つのショッピングモールという形になっております。
 それでは、PRSとは何かというと、商店街や1つの市街区では当然お金がないわけですから、民間の業者を入れて、大きなことをやるのは難しいことから、@駐車場、Aレストラン、B特徴の有る集客性の高い店舗を核として店づくりを行う、という考え方です。
 もう少し具体的になってきたのが、1994年に施行された連邦政府購買合理化法で、従業員500人以下、年間売上500万ドル以下の中小企業から、政府が物品・サービスの購入を義務付けたものです。
 このようにして様々の再開発を行ってきているが、実際には、本当の成功例はそれほど多くないのが実情です。成功例の大半は、ダウンタウンにあるメインストリートの再生で、駅舎や工場などの跡地を再開発に利用して、ダウンタウンにつなげて行くというものです。
 ダウンタウン活性化の事例としては、ラスベガスの「フレモント・ストリート」=メインストリートをアーケードで覆い、巨大なスライドショーをおこなって、1回のショーで18,000人集めている。専用の無料駐車場を設け、ホテルや一般からの寄付を受けて活性化事業を行っている。
 アメリカにおける小売業の発展と展望についてみると、実際には小売業の競争環境は、ますます激化して行くこととなる。その中で、最終的には、顧客満足の実現というところに行きつく事となる。小売業にとって、既に価格競争は終わり、力を入れるべきところは、ホスピタリティ(サービス、店づくり、陳列方法、接客、商品知識)で、顧客をどのようにして逃がさないか、そのことを中心にして小売業は発展して行く。成功を持続できている業態は、必ずしも価格で競争していない。価格が安いのは当たり前で、サービスで差別化して行く戦略をとっている。

4.まとめ
 アメリカの小売業は、ショッピングセンターを中心に発展して行くと思われるが、市街地(商店街)は、今後、どのような開発の方向性を持って行くべきか。商店街は、自然発生的に出来あがってきたものであるのに対し、ショッピングセンターは、人為的に計画されて建設されたものです。従って、これからは、ショッピングセンターが当然核になって行くこととなる。
日本ではどうなのかと言えば、日本ではそれほど大きなショッピングセンターはまだ存在しない。しかし、アメリカの事例では、市街地(商店街)だけで成功したものは皆無に等しく、ショッピングセンターと手を結んだものだけしか成功していないことから、単に、道路や街路灯などの環境整備を行うだけでは、役に立たない。
又、様々なイベントを開催するわけですが、統一性がなく、自己満足に終わっていることが多い。コミュニティーバスの運行もアメリカでは通勤客しか利用せず失敗した例が多い。アメリカの例にあるように、大型店、百貨店、ショッピングセンターと協力してやって行くことが商店街活性化の近道となると考えています。さらに、お客さんにいかに来てもらうか、駐車場がないから客がこないと言っても、有料の駐車場であったり、距離が離れていてはお客は来ません。駐車禁止の解除への取り組みを行うなど、出来れば店の前に駐車できるようにして、2度、3度の来店につなげる。個々の商店のコンセプトを明確にして、大型店との違いを出し、併せて、街づくりのコンセプトも明確にして一貫性を持つことも重要な要件となります。
商店街が活性化して行くためには、広報活動や住民ネットワークづくりを行い、住民のコンセンサスが充分得ることも重要です。もう1つは、官民一体となった商店街の活性化への取組みが絶対的に必要となります。更には、街づくりのためには、利害関係を持つ当事者のみではだめで、やはりボランティアの力が必要となり、これを中心にして進めて行かないと成功は難しいと言うことが出来ます。(以上)




講演2.「近世中国の学校教育」
講師 岡崎学園国際短期大学 国際文化学科 助教授 渡 昌弘 氏

 本日は、近世中国において、学校を卒業したけれども結果的に官僚になれなかった人たちが、どのような活動をしていたのかということを、科挙という試験制度や当時の学校制度と合わせてお話ししたいと思います。
1.明、清時代の科挙と学校制度
 近世中国は、日本となじみがないと思われ勝ちですが、そういう訳でもありません。
 まず、近世といいますのは、西暦960年に北宋と言う王朝が始まってから、1911年に清と言う王朝が今世紀の初めに滅亡するまでを、近世と考えております。学会によっては、1644年の清王朝以後を近世という言い方をするかもしれません。
私は、近世の中でも1368年以後、明という王朝、清という王朝の時代の科挙とか学校制度とかいうものを研究しています。
 近世という北宋以降の時代は、簡単に言うと、個人の能力で出世が出来た時代ということができます。それ以前の時代は、親が官僚であれば、子供も何らかの官僚の地位がもらえた訳ですが、北宋以降は、親が官僚であっても、努力しなければ、子供が官僚になれるという社会ではありません。そういう点でいえば、今の日本とも共通点があると思います。
そうした社会の基盤となったのが、科挙という試験制度であった訳です。科挙というのは、3段階の試験(郷試、会試、殿試)があり、3番目に皇帝の目の前で試験(殿試)を受け、官僚にしてもらうというかたちになります。

2.受験戦争の弊害と打開策
 そうしたかたちを少し形を変えようというのが、明、清という時代の学校です。つまり、試験だけを行っていると、どういう勉強をしてきた者が官僚としてやって来るか分からない。ですから、どういう勉強をするのかというところまで、国がお金を出して学校を整備しようとなるのが、明、清という時代です。
 科挙の制度は選抜試験ですが、その前段階の人材教育機関として学校制度が創られます。当時の人は、3段階の入学試験(県試、府試、院試)を経て入学し、その後、歳試、科試などいくつかの試験を経て、科挙に挑戦することとなります。
こうした仕組は、当時としては画期的なもので、人を採用することと、人を養成・育成することは、基本的に目的が違う訳です。学校というのは、本来、養成機関であって、試験というのは、その達成・養成の度合いを見るもので、この2つを結びつけたということです。
今の日本もそうですし、昔の中国もそうなんでしょうけれども、人材養成・育成というところが少し影に隠れてしまって、どれだけ達成したのかという試験の面だけがクローズアップしまっています。こういう試みは、実は理想とは全然違うかたちを、又、結果を生んでしまいます。簡単に言えば、今の日本のように、幼稚園に入るところから競争が始まるという社会を生み出してしまうこととなります。当時の中国も同じであって、入学試験に受かるというところから競争が始まる訳です。競争自体は、もしかしたら、お腹の中にいるうちから始まっているのかもしれません。学校に入るところからの、そして、学校に入ってからの何段階もの試験というものが積み重なってゆくだけでした。理想とは違って、試験の回数が増えるだけという結果をもたらしてしまいます。
それでは、そうした中で、学生はどのような生活をしていたのか、どのような問題が生じたのかを、つぎに見てゆきます。
まず、どれだけの人が競争をしていたのか、その競争率を科挙の第1段階の郷試(それぞれの省の都で行われる試験)によって、租税の対象となる人口と対比しながら見てみますと、明代初期(14世紀後半)では、人口6500万人に対し、学生3万人、郷試の競争率59倍。明代後期(16世紀始め)では、学生の数31万人、競争率266倍。明代末期(17世紀前半)では、人口1億5000万人、学生の数50万人、競争率418倍と、どんどん競争の倍率が高まってゆきます。
では、具体的に何歳ぐらいで試験に受かり、又官僚になれるかということですが、統計資料がありませんので、当時の文献資料で見ると、例えば、2人ほど例に挙げると、姚舜牧さん(1543年浙江省生まれ)は、5歳から勉強を始め、18歳で学生となり、30歳で郷試に合格、その次の(上の)試験に合格しなくて50歳で県知事となっています。逆にいえば、50歳まで働かずにいることが出来た人ということになります。
次ぎの、艾南英さん(1583年江西省生まれ)も、5歳から勉強を始め、18歳で学生となり、37歳で郷試に合格、この人は順調でこの後すぐ官僚になっています。それにしても、30歳、あるいは40歳近くなって官僚になるという訳ですから、一定程度財力がないと、お金持ちでないと官僚にはなれないということもいえます。
こういういくつかの例を集めて、研究した人によると、学生になった年齢を推測で出すと、平均25歳になるそうです。次ぎに、郷試という試験に受かるのは、30歳過ぎ(清代には細かい統計があって、それによると31歳)で、こうした厳しい、長い時間にわたって競争が続けられて行く訳です。
 そして、合格までの経緯については、「儒林外史」とか「官場現形記」などの小説に、生々しい状況が記されております。長期間の競争に勝ち抜いてゆかなければ官僚になれないということで、その結果どのような弊害が出てくるかといえば、これは、現在の日本にもかなり当てはまるようなところがあると思いますが、例えば、筆記試験のみでの選抜に対する不安、これは試験さえ出来ればそれで良いのかということ。それから、官僚としての才能に疑問がある、つまり、勉強ばかりしている者が庶民の気持ちがわかるのかというようなこと。それ以外に、カンニング、本籍地詐称、賄賂などの不正が横行すること、官僚になる頃には高齢となっており(何の経験もなく年をとってしまって)職務遂行に支障が生ずることなどです。
 更に、お金持ちでないと長い期間勉強が続けられないことから、科挙の受験が特定の人に限られてしまうこと。又、受かりやすい地域と、受かりにくい地域の地域格差があります。ですから、不合格者の処遇については、不満を持つ者を生み出さないようにするにはどうすれば良いかが大きな問題となります。

3.国子監での試み
 筆記試験にさえ受かればそれで良いのか、明の時代でもこれを何とかしようとする試みが行われています。それは国子監というところでの試みられています。国子監というのは京師(都=明代には北京と南京)に設立された、地方の学校よりワンランク上の大学院大学のようなかたちの学校です。信じられないようなことですが、明という王朝が、清に滅ぼされようとした時、北から清の軍隊が攻めてきたとき、明の軍隊は逃げる際にこの学校を移動させています。国子監という学校は、都にあった学校ですから都が移れば、一緒に学校も移る訳で、それほど重要と考えられていた学校です。
 国子監という学校で、どういう授業(課業)を行っていたのかについて、1ヶ月のスケジュールを見ると、休日は1日と15日の2日間、教官が講義解釈する会講が6日間、学生が解釈を反復する復講が8日間、暗誦・暗記する背書が14日間となっております。休日が2日間ありますが、これは授業が休みという意味で、この日は孔子を祠るお祭りをする日であるわけです。
テキストは、論語など四書五経ということになります。こういうかたちで勉強してゆく中で、学生を3つにランク付けします。学生は、正義堂、崇志堂、広業堂のどこかに入ります。一定期間に成績が優秀であると認められると、修道堂、誠心堂に入れてもらいます。更に、成績が優秀であると認められると、率性堂に入れてもらいます。
学校の教室も成績に応じて北から南に配置されています。最後に率性堂に入ると、ここで一定の成績を収めると、試験を受けなくても官僚にしてやるというかたちをとります。科挙によらない官僚への選抜が行われた訳で、これは、いわゆる受験地獄を解消しようという目的で考え出されたものです。起源はもう少し前にあるのですが、こういう形をとるようになります。この率性堂は、今の大学と同じようなもので、年間8単位を取れば官僚にしてもらえるということです。そうしたかたちで科挙の試験を通らずに優秀な人材を取ろうという試みが行われています。今でいえば、推薦入学のようなものです。
そうした試みが行われますが、一方では、どうしても反発が生まれます。それは、四書五経の知識だけで良いのかという意見であります。いくら形を変えても、やっていることは、勉強して、試験をやって、合格したら、官僚にするということですから、科挙を通ってきたのとどれだけ違うのかという批判が出てきます。
そこで出てくるのが、勉強するだけではなくて、学生を地方の役所に学生の身分のまま出向させ、その役所で、帳簿をつけるとか、税を集めるとかの仕事をさせることを義務化します。その仕事振りの勤務評定を4段階で行って、そのランクに応じて官僚にするかたちに変わって行きます。実際にどういう仕事をしているのか(それぞれの役所で期間3ヶ月から1年半まで決まっている)体験させ、実務経験を積ませて行く。こうなると、今度は、四書五経の勉学のほうが疎かになってしまいます。率性堂に登った後、地方の役所にいって、そこでの勤務評定が自分の将来を決めるとすれば、どうしても勤務評定に目が行ってしまいます。
だから、今度は、勉学から、実務に目が行ってしまいます。そうすると、先程のひっくり返しで、やはり四書五経の知識が重要ということで元に戻ってしまい、ある年には、国子館の卒業生でも科挙を受けなさいという命令が出てしまいます。
これがうまく行かないのには、実はもう1つ理由があります。学生達は、やはり科挙に受かることを目的にしてしまいます。それは、中国のその当時の社会が、科挙という制度を中心に据えていたからです。どのような道順を歩んできても、最終的には科挙のランクでどうなるかというのが、価値の基準であったわけです。
そういうところがありましたから、学生たちは確かに言われたことを勉強し、また、役所にも出向したのですが、心の中では科挙を目指しており、実際には、理由をつけて家に帰って勉強しました。
国子監は、今で言う全寮制で、敷地内に宿舎があって、そこから学校に通っていた。せいぜい門を2つくぐれば学校へ行ける。いわゆる全寮制ですが、親が年老いていて面倒を見る事が出来ないので手助けに行く場合や、子どもが幼くその手助けをする場合、また、親戚に結婚式がある場合等には、家に帰る事が出来る。学生は、色々な理由をつけて故郷の家に帰って、科挙をめざしての勉強を行います。そして、定められた期限が過ぎても帰ってこない。自分に家で科挙のための勉強をしています。そのように学生たちは科挙合格を徹底して求めてゆきます。そういう訳で、ここ国子監での試みは、学生の気持ちを変えることは出来なかったので上手く行きませんでした。

4.科挙不合格者の処遇
もう1つの弊害は、科挙の合格者の処遇で、競争率が上がった結果どうなったのか。競争率が59倍ということは、つまり、1人が受かると、58人が不合格となることで、不合格者の方がはるかに人数が多いわけです。266倍であれば265人が不合格となり、418倍であれば417人は不合格となります。その不合格となった人をどうするかということが問題となります。
端的に言えば、不合格となったことにより不満を持った連中が増えてゆくということで、その不満を何とか解消しなくてはいけない。これは、科挙というものにしか基準がなかったからそういう事が言える訳ですが、その不合格者をどう扱うか、王朝に対して背くようなことをしないようにどう扱うかが問題となります。
そこで、当時の政府は、ある特権を学生たちに与えます。つまり、学生は、科挙に落ちてしまっても学生としての地位や名誉を持たせるようにします。
どういう特権を与えたかというと、1番大きな特権とは、「働いて税を納めなくてもよい」というものです。これは、中国の昔の社会は、働かなくてはいけない階層と、働かなくてもよい階層に分かれております。政治を行なう階層は、国に対して、また、中国の文明に対して責任があると言う考えがあり、そういう人達は、四書五経の考えを勉強し、保存し、維持てゆけば良い。そうでない人は、汗水たらして働き、税を納めてゆくということです。
よく言われる例ですが、例えば、爪を伸ばします。爪を伸ばしっぱなしにすると、農作業など仕事は出来ません。当時は、爪を伸ばすということは、働くなくてもよい階層であることをアッピールすることであります。学生たちもそいう働かなくても良い階層なんだということにしてしまった。これは、明の時代にそういうふうに決めてしまった。
その結果として、学生たちは、もちろん悪いこともしたでしょうが、良いこともしたわけです。つまり、科挙に受からないという不満は持ちながらも、自分はそうした特権を与えられてた地位にあるという誇りを持っておりますから、地域において、色々な活躍をしてくれます。果たしてそこまで皇帝が考えていたかどうかわかりませんが、結果として学生たちは、郷里において政治的な面、経済的な面、文化的な面等、様々な活躍をしてくれます。
例えば、政治的な面で言えば、個人的に兵隊を集めて盗賊を防ぐ活動をしたり、裁判や調停の働きをしたりします。裁判所には、学生は勝手に入ってはいけないのですが、冤罪で処罰されそうなところに学生数10人で突入して、裁判を中止させて、冤罪で処罰されそうになっている人を救出するというようなことも行なっています。あるいは、地方の県の知事が不正をはたらいた時、訴え出るといったことも行なっています。裁判所に突入することも、訴え出ることも本来は禁止されています。
経済で言えば、堤防をどう造るかという水利問題で、堤防は沢山造れば水害が防げるかというとそうではなく、所謂、遊水地を適切に造っておかなければなりません。ところが、この明とか清の時代は、そういう遊水地を無視して堤防をあちらこちらに造ってしまうようになります。そういう場合に、水が多い時に害になるからあそこの堤防を壊せ、ということを学生たちは言い出す訳です。本来なら、「堤防を壊せ」などということはなかなか言い出し難いことですが、そういう事を学生たちは言うようになります。その他、お米を配ったり、銀を渡したりという災害時の救済も行なっています。
文化的な面では、県史の編纂に加わったり、学校を修理したりしています。このような仕事は、地方政府や官僚がやるべきものだと思われるのではないかと思いますが、官僚はだいたい3年から5年で異動してしまいますので、腰を据えてなかなかやってくれません。代わりに、こうしたところに学生が活動の場を求めていって活躍する訳です。これは大事なことですが、本来、学生同士は競争相手なのですが、そうした者達が利害の一致することについて集団で行動するということです。
もう1つの理由は、働かなくても良いという特権を貰っているという同類意識にあります。ですから、面識がなくても他の学生が無実の罪でひどい目に会っていることが分かれば集団で助けに行くといったことを行ないます。
余談ですが、官僚は3年から5年で異動するといいましたが、当時の官僚は終身雇用と言っても現在とは違い、3年か5年で勤務評定があり、その成績が良くないと休職になり、職を失ってしまいます。あるいは、父親や母親が亡くなった時も一定期間休職になります。親の死に対して喪に服さなくてはならないというのは子どもの義務ですから、強制的に仕事は取り上げられます。休職期間中は給料はありません。一定期間が過ぎると、復職出来る訳ですが、どのような地位に就けるかは分かりません。
こうした方式は、人材が余っている時には都合の良いものかもしれません。つまり、政府としては、一定程度出費を押さえることが出来ます。官僚としては、休職扱いですが、解雇ではありませんから、ある程度待てば復職できる訳です。
官僚には、中国の場合、終身雇用というイメージがある訳ですが、実は、一定期間休職にする制度が設けられています。人材が余っている時には出費を押さえる都合の良いものかもしれませんが、仕事に対する情熱を考えると、好ましいかどうかは疑問が残ります。近世の中国には現実にこうした制度がありました。

5.科挙の終焉
科挙と学校が結びついたお話しをしてきましたが、その科挙は1905年に廃止されることになります。科挙には、いくつかの問題がありますが、その特色としては、身分制社会を否定し、親が官僚でなくても子供は官僚にしてもらえる制度を創ったということにあり、欧米の試験制度に影響を与えました。
もう1つの特色は、軍事クーデターが起こりにくい社会をつくり、文人による政治を確立したことです。
科挙の受験の際のカンニングに使った四書五経を写したシャツが残っているのですが、これは見つかった人のものだと思います。見つからなかったものはもっとたくさんあると思いますが、賄賂を用意できなかった人が捕まってそれが残っているのだと思います。文献としては、「科挙」(中公新書)とか、「科挙史」(平凡社・東洋文庫)等を参考にしていただけると、面白いのではないかと思います。(以上)

*講演終了後に岡本、渡両講師を囲んでの交流会を開催した。


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