第3回産学研究会議事録





第3回産学研究会議事録 平成11年9月24日 14:00〜16:00 岡崎商工会議所中ホール 出席者52名

岡崎商工会議所コーディネート活動支援事業
講演「 『観光』という名のまちづくり 」 ― 岡崎のモノ・コト・ヒトは光っていますか ―
講師  愛知学泉大学 家政学部 教授 内田 州昭 氏

T.国境なき鎖国
先程、草間コーディネーターからご紹介いただきましたが、岡崎大学懇話会研究者名鑑の中で、「国境なき鎖国・東海国は、本当に人々を迎えるつもりがあるのだろうか。東海国の中の三州岡崎は人流時代を見すえて、積極的に自己表現すべきであろう。温故知新のまちづくりを・・・」と、地域活性化に向けて観光・交流という視点からのコメントを述べせていだだきました。
国境なき鎖国とはどういうことか。世界の中で日本が、特に欧米の諸国から理解されてない国だとよくいわれております。つまり、腹切りがあるかと思えばハイテク産業が断然強いとか、黒澤明の映画が大ヒットするかと思えば自動車が強いとか、ロンドンのタクシーのドアは手で開けるのが当たり前ですが日本のタクシーは自動でドアが開閉することを現地の人に話をするとビックリするとか、こういう誤解を受ける事が起きています。
実は、これと同じ事が名古屋を中心とする東海国についてもいえるようです。
ここでいう東海国とは、概ね赤味噌圏のことをいうわけですが、日本が世界の中で誤解を受けているように、東海国は日本の中から誤解を受けているようです。
私は、たまたま大学は東京ですが、(社)日本観光協会で26年間勤め、ご縁がありまして学泉大学にお世話になって4年半経過しております。学校に赴任してお世話になる方々にご挨拶に伺ったときの心理的距離感を申し上げますと、『東京から来た』とお話すると相手の方との距離は5m位隔たっております。次に、『知多半島の内海の出身です』と伝えるとその距離は3mに縮まり、更に、『私の母親が安城の出身』である事が分かると、その距離は1mとなり、『まあ握手』という具合です。
つまり東京ものはよそ者だから5m以内に近づけないという感覚であります。そして、東海国出身だということになると3mに近づいていただける、三河の出身だということになると1mとなります。そんな感じを受けたのをはっきり覚えております。これはまさに、良いか悪いかは別にして、私たちが内々の社会をつくっていっているのではないかということを感じました。それは、私自身が愛知県の出身でありますから、たまたましばらく東京に行っていて、また、観光の仕事で全国あちこち回っていましたので、そんなことを感じたのかも知れません。
私自身が東海国の出身ですから、非常に居心地が良い訳です。『内海の出身で、母が安城で』と言ってしまえば、皆さん『おお宜しく、内々で』と言って下さるわけです。


U.岡崎で見たこと、考えたこと
さて、観光という言葉には、2つの意味があります。1つは、一般の方が使っている『観光旅行』のことで、訪ねる行為であります。もう1つは、『観光事業』のことで、これは人様を迎え入れることによって経済活動を行うことを観光という言葉で表します。しかし、一般に、私たち旅行をする側は、観光といえば、観光旅行をのことを言っております。訪ねる側と迎える側では方向が逆であります。それをまとめて私たちは観光という言葉を使っておりますので、一般に観光という言葉が気楽に使われておりますが、この2つの立場が有るということをご理解いただきたいと思います。
これから、岡崎で見たこと、考えたことについて、私のいくつかの経験をもとにお話いたします。
  今日は、出来るだけ脚色することなく、こういうことがありましたということをご報告申し上げます。そして、そうしたことが実は、まちづくりとか、観光にどのように関係してくるのかをお話申し上げます。

1.『美しい川のあるまち』
私たちは、このまちに来て、東岡崎駅を降りてまず乙川に接します。乙川の護岸が、割合、自然護岸に近いもので、何メートルおきかには自然石が入れてあります。これを見て、川の景観づくりも非常に心遣いされているなと感じます。水が美しい。恐らく、これだけの都市で、これだけの規模の川で、かつ、底まで見えるほど美しい水を流している川は、あるいは、都市はそんなにありません。東京、大阪はもとより金沢の犀川・浅野川も、はたしてあれほどきれいだろうかと思いますと、あの乙川、そして、その本流であります矢作川は自然の楽園であります。聞くところによりますと、矢作川は、上流から下流までの市町村が協定をし、美しい川を守ってきたいう歴史があるそうであります。
私は毎日、矢作川の橋を渡るたびにすがすがしい気分になります。私の学校の部屋から眺めますと、矢作川が大きくうねり、広重の絵をそのままに、美しい景観・風景を形成している。美しい風景の中で時を過ごせる喜びを、私はつくづく感じております。岡崎に来たときの第1印象は、"美しい川があるまち"ということでありました。

2.『駅前に立って見えるもの』(観光地を汚しているもの)
ところが、例えば、東岡崎駅前の一番大きい建物が駐車場ビルであります。これは30万都市といたしましては、異様な感じであります。
岡崎にやって来る私の知人は、あの駅前の感じを見て『岡崎の人口は10万人程度ですか』と尋ねます。人口33万人ですと答えると驚かれるが、これは、この駅前の景観に起因するものといえる。また、東岡崎駅前のビルの看板は、半数が、英会話スクールとサラ金です。もう少し何とか成らないのというのが素直な印象であります。しかも、岡崎に限りませんが、名古屋地域の看板はどうしてあれほどケバケバしているの、と私の東京の友人からよく聞かれます。折角何年か前にデザイン博をやりながら、看板のケバケバしさが直らない。車で走っていますと、タイか台湾にいる錯覚を覚えるほど看板の色が赤々しくケバケバしい。これで本当に人様をお迎え出来るのかなあ、誇り高く岡崎をPR出来るのかと心を曇らせてしまいます。

3.『籠田公園の駐車場』
籠田公園の地下が駐車場となっていることを知り、私は大変感動いたしました。つまり、公園と地下駐車場として2重に使っている訳でありますが、まさに自動車社会が規定する都市で、公園の地下をきちっと活用している。籠田公園は、五万石祭りとか、さつき祭りとかいろんなことに使われ市民に親しまれている公園で、その下に駐車場がある。私は、ここを二七市を含めて毎年学生たちに見学をさせますが、必ずこのことを説明します。都市というものは高い土地を2重・3重に使わなければなかな難しいということを教えております。そう言う見方を教えることによって、学生たちも目を開いてまいります。

4.お寺・石屋・仏壇屋・和菓子屋
このまちには、多くのお寺が目に入ります。市町村別では全国で京都、大津に次ぐといわれるほどお寺が多いと言う説を聞いたことがあります。そして石都と言われるぐらいですから石屋さんが多い。いまでは団地に移りましたので、石屋さんが並んでいた花崗町も昔の壮観な景観はなくなったと思いますが、それでもそこを歩きますと感動いたします。そしてまた多いのが仏壇屋さん。美濃だとか、愛知だとか、尾張だとかすぐ5〜6軒出てまいります。そして和菓子屋さん。ただ売っいてるのではなく、自分のところで作っている。備前屋、旭軒、葵園、藤見屋とかぞろぞろあります。この4つを並べまして、これは岡崎が三河門徒の非常に強いところですから、皆さん信仰心が厚く、まずお寺さんにお参りする、法事があれば当然お菓子が出てきます。そして、お墓を作るには石屋さん。家を作れば仏壇と言うわけでコンツェルンとなっているわけです。従って、この4つは正に、三河の風土、三河の土地柄をあらわしており、個々に見れば全然別の業種に見えるわけですが、三河らしさがここにあると私は思います。

5.『大樹寺の山門から岡崎城が見えるという景観を400年間守りつづけていること』
さて、学生を連れていって感動させるのに大変都合の良い場所は、大樹寺であります。ご存知のように、大樹寺の山門から岡崎城がちゃんと見えます。この間に高い建物を建てないということになっているのであります。しかも、家康さんが亡くなりましてから400年近くの間、岡崎の人々が家康さんの気持ちを大事にしていると言うことは、実に感動的なことであります。このことには、学生たち一人一人が素直に感動してくれます。

6.『お城より高いビルが気になる』
北九州市の小倉の場合は、小倉城よりも、すぐ隣にある市役所のビルのほうがはるかに高い。私が考えたのは、何故、お城を再建したのか、その時の市民の心根・気持ちは、「お城は、わがまちの『へそ』であり精神的な『象徴』で、お城を作るということは、城下町であることの確認する行為」であるはずです。だとすれば、少なくとも、お城が周辺で最も高くあるべきことを市民は無意識のうちに願っていると思います。例えば、1号線を西の方から入ってきて矢作川にかかりますと、お城が見えてきます。まちに近づいて参りますと、ご城下のお城が一番高くて、それを目指して、私達は岡崎に着いた、吉田に着いた、浜松に着いたと旅してまいります。  私達は、そのまちに近づいて行くとき、最も高い建物=シンボリックな所に向かって近づいていく訳です。しかし、岡崎の場合も周囲にお城より高い建物が建ち、お城は、遠慮して座っているように見えます。  あの大樹寺からお城までの間のまちをずっと家康さんの気持ちを大事にしてきた市民がつくった景観なのだろうかと、いつも残念でなりません。少なくとも、お城の周辺半径500mから1km位は、お城を一番高い建物として、皆がこれが岡崎だ、という心根が欲しかったと思います。今更どうすることも出来ませんが。私は、そんな印象を持って毎日あのお城を眺めております。

7.『八丁味噌工場』(生産する場所の魅力)
八丁味噌工場には、多い日には全国から数十台の観光バスが訪れています。見学に行きますと、100を越す6尺のたるに石を積んで、3年仕込んで味噌を作る訳ですから、私は、八丁味噌が他の味噌より何倍高くても納得します。ここには、物が出来てくる場所、生産する場所を眺め・味わう喜びがあります。私は、お客様に1時間の余裕があれば、必ずここにお連れし、大変喜ばれます。

8.『自転車置場のない美術博物館』
中央総合公園に岡崎美術博物館がございます。なかなか優秀な企画の展覧会を開催する美術館だと思います。私は、市内を移動する時、ほとんど自転車を使っておりますが、この美術博物館には駐車場はあるが、自転車置場がありません。まさに自動車社会の方が造ったのだと思います。自転車でまさかあんな所まで来るとは思わないでしょうね。だから自転車置場がありません。バスの便も良くなくて、車のみでの来場しか考えていないように思えます。ちょっと悲しく思います。

9.『自転車の人は免停か貧乏人』
私は、大学へ行くときを含め、市内を移動する時ほとんど自転車を使っていますが、いつも『かわいそうに』という目で見られます。、「岡崎では、男で自転車に乗っているのは免停か貧乏人。」といわれます。実は、自転車で通いますと『まちがよく見えます。』。例えば、城下町らしい様々なお店や、四季折々の変化の風を感じ、城下町の風情が見えるのであります。

10.『名前の違うバス停』
ここは大事なことですが、248号線沿線で名鉄とJRのバスが併走し、ほぼ同じ位置にバス停が設置されていますが、バス停の名称の異なるものが数多くあります。普通なら同じ場所にあるバス停は、バス会社が異なっていても同じでなくてはならないと私は思います。明大寺と明大寺町、芦池と芦池橋、岩津天満宮と岩津天神口、三河岩津と岩津、蔵前と東蔵前、三河百々と岩津百々のようにバス停の名称が異なります。市民の皆さんは、地名をよくご存知なので不都合を感じられないと思いますが、例えば、新横浜と横浜が異なる場所であるように、地名が違えば、旅行者には同じ場所とは思えません。同じ所にあるバス停の名称が二重構造になっているということは、よそから来る人を迎えようとする気のない、始めて来る人には訪ねにくいまちなのだろうなと私には思えます。

11.『夜毎、騒ぐ暴走族』
私は岡崎警察署の近くに住んでいますが、夜毎1時から2時の間、警察署の近くで暴走族がエンジンをかけます。暴走族が走り回るまち、暴力団の発砲事件のあるまちは、旅行者にとってあまり訪ねたくないまちだと思います。

12.『タクシーで行くしかない子ども美術博物館』
おかざき世界子ども美術博物館は、世界で1つか2つの特異な美術館であり、遠くから訪れる人も多いと聞いておりますが、パンフレット等を見ると、交通案内は「本宿駅からタクシーで5分」と書いてあります。子供達が行こうと思ったときに、タクシーに乗って行かなければならないことに私は疑問を感じます。子供相手の公共施設へ行くのに、タクシーで行くしかないのはおかしな事と思います。

13.『岡崎は何もないまちというタクシー運転手』
このまちのタクシー運転手さんは奥ゆかしいのかどうか分かりませんが、『運転手さん、岡崎の見所は』と訪ねると『面白いところは何も有りません、つまらん所ですよ』と、10人の内8人の運転手さんはそう答えます。タクシーは、道のわからないよそ者が、まち案内のために利用することも多いわけですから、うそでもよいから旅行者に対して見所は沢山あります、と答えて欲しいわけです。観光の視点から見ると大変な損をしている事となります。

14.『二七市にびっくりする学生たち』
私は、必ず学生たちを二七市に連れて行きます。普段は割合年配の人が多いものですから、女子学生が20数人集まりますと、売り手の皆さんも張り切って学生達に盛んに声をかけていただきます。日頃、声をかけてくれないスーパーやコンビにで買い物をしている学生たちは、一様に、二七市のこの生き生きとした生活文化に強い感銘を受けるようです。こういう体験が学生たちに岡崎の強い記憶として残ります。

15.『痴漢の出没するまち』
私の大学は、やや寂しいと所にあり、痴漢の被害を受けている女子学生は少なくないようです。こうしたまちは、人にお勧めしたくないまちで、旅行者を優しく迎えるまちとは言えません。

16.『幻の安城学園大学』
私の勤務する愛知学泉大学は、昭和57年に安城学園大学より名称変更しておりますが、JR駅前の案内広告版には最近まで「安城学園大学」と表記されておりました。訂正していただきましたが、地図案内情報は、常に最新のものでなければ役に立ちません。コンピュータは進んでいるが、案内看板は駄目というのでは、元も子もないわけです。

17.『橋一本の広域案内図』
東岡崎駅前にも広域案内図が出来ております。これをみると、鉄道は全て書いてあるものの道路はほとんど書いてありません。道路は国道1号線のみ、橋は矢作橋のみで、日名橋も渡橋も表記されていません。誤解を招かせるもので、これも、どういう意図でこうなったのか理解できません。

18.『夕刊を取らない家庭が半分』
こちらへ参りまして、夕刊を取っていない家庭が5割くらいあると聞きびっくりしております。食堂などでも夕刊をとらない事は珍しいことではないようです。ニュースというものは流れがあり、夕刊をとらなくて大丈夫なのかと心配になってしまいます。
いろいろ申し上げ、お耳の痛いこともあったかもしれませんが。決して悪意があって申しあげた訳ではありません。歴史があり、地味なまちにお客様を呼んでくるために、プラスのものはもっとプラスに、悪いものは1つ1つ消して行く努力を私達が行って行くことが大切だと考えているからです。また、情報は、出すのも大事ですが、引っ込めるのも大事です。終わってしまったイベント等の情報はすぐに引っ込めないと、締まりのないまちだと受け取られます。光ってない人が取り仕切っているまちは、大したことのないまちだという印象を受けるからです。好きなまちだからこそ良くしたい、お客様を迎えたときこんなに面白いまちですといえるようにしたい、というのが私の願いであります。


V.岡崎の観光ルネッサンス事始
さて、次に、私なりの『岡崎の観光ルネッサンス事始』と題したご提案をさせて頂きたいと思います。個々の具体的な事業提案については、観光協会や、商工会議所でご検討頂いておりますので、ここでご提案申しあげますのは、思想と言うと大げさかもしれませんが、まちづくりと言うことを念頭において観光を考えるとすれば、観光100年の大計とは言いませんが、まず、まちづくりの理念・哲学に関しては、少なくとも、30年程度のスパンで理念があってもよいのではないでしょうか。その理念が、戦後の日本の観光にはありませんでした。あったとすれば、外貨獲得が目的であり、お金を稼ぐことが目的で観光の旗を振ってきました。国がそうでありましたので、県も市も同様の考え方となっていました。
ここでお考えいただきたいことは、今までのわが国を支えてきた様々な産業にややかげりが出て、大きな転換期を迎えているときに、この新しいビジター産業、人々を迎え入れる、あるいは物流時代に対して人流時代という言葉を使っておりますが、『人が動く』産業を興してゆこうではないかと言うのが今や世界の大きな動きであります。今、立教大学には大学院のついた観光学部が出来ました。14か15の大学で観光学科をつくっています。学科がなかったのが東海地方だけです。ようやく今年4月から岐阜女子大学が観光学科をつくりました。これは、他の産業が豊かであったゆえに、観光のように人に頭を下げて来てもらうような産業は、社会的地位が決して高くなかった。観光関連産業に人材が集まらないのは、当地には強力な産業が存在したからです。
これからは、ビジター産業、人流時代を支える産業が絶対に注目されてまいります。これまで当地の観光政策が、観光事業の視点に偏っていたのはやむをえないことですが、これからの観光には、人流時代を意識した戦略が必要となります。
観光とは、観光事業と観光旅行、迎えるものと訪ねるものが喜びを共に分かち合うと言う考えをベースにしないと上手くいかないものだと言うことを前提として、岡崎の観光ルネッサンスという哲学と言うか、理念をご提案してみたいと思います。

『観光は私たちが身のまわりの光(モノ・コト・ヒト)をよく知り、誇り高く語ることから始まります』〔主人の立場〕……誇り高く語ることが重要です。先程お話したタクシーの運転手さんのようでは観光になりません。
『観光は各地のもつ光を心をこめて暖かいまなざしで観つめ、たたえることから起こります。』〔客人の立場〕 ……私たちは、あちこちを訪ねていったら、そのまちの持っている光を暖かいまなざしで観つめなければなりません。
『岡崎の観光は迎える者と訪ねる者、主・客がその出会いの喜びを共に分かち合うことをめざします。』〔これからの観光の理念〕……今までは経済の言葉で語っていましたから、迎える側は、自分だけ儲かれば良いと思い、訪ねる側も地元にどのような迷惑がかかろうが自分さえ楽しめればよい、というものでした。主客が出会いの喜びを分かち合える。こういう理念を私たちはここに据えようではありませんか。
『岡崎に暮らす私たちは、これらのことを心にとめ、こぎれいでさわやかな「風・光・景」との共生と個性あるまちづくりに励みます。』……風は、風景・風習、美しいその国が持っている国風、風格をいいます。景は、景色の景だけでなくて、景気の景です。景の字は都に光がさしているのことを表しています。
そして、少し具体的に申しますと、
1.『私たち岡崎に住む者は、まずこの土地の出身者が誰かといっしょに帰ってきたくなるように、地域の光を磨き、輝かせるように勤めます。』……つまり、地元の出身者が友達を連れて帰りたくないようなまちは、観光地とは言えません。まず、出身者が誰かを連れて帰ってくるようなまちにしようではありませんか。これが出来なくては、見ず知らずの人を迎えることはできません。

2.『私たちはその昔より尾張・三河の先人たちが多くの旅人をやさしく迎え入れたことを思い起こし、この土地の育んできた光を、遠き近きの人々が訪ね来ることを素直にうれしく思います。』・・・岡崎は、東海道筋でありますから、その昔から様々な人々を迎え入れております。この明大寺町という地名も、浄瑠璃姫を祠った寺の名前が明大寺で、これがまちの名前になったと聞いております。800年からの由緒ある名前です。昔から多くの人を迎え入れた、そういう歴史を持つ私たちは、今、遠くから、また近くから来る旅人をやさしく迎え入れます。
私の大学にも、青森県、高知県、屋久島から来る学生がいます。遠方から来る人だけでなく、近くから来る人もやさしく迎え入れましょう。それが観光の第一歩だと思います。金を落とすかどうかは別として、素直にうれしく思おうではありませんか。

3.『私たちは、旅人たちと喜びを分かち合うために、自分たち一人ひとりが「よき旅人」となって、よその土地の光を観つめ、我がまちの光を観つめ直します。』・・・迎えるだけでなく、よその土地を訪ねることも大切です。他の土地の光を観つめ、自らの見聞を広めることで、自分達の光を見つけ新たな土地の魅力を発見する。旅は今後、交流型になります。見聞を広めることで、自分たちの光の良さを発見することが、この『良き旅人になってほしい』と言うことです。

4.『私たちは旅人を迎える喜びと、自分たちが旅する時のときめきを次の世代のこどもたちや若者たちに伝えていきます。』・・・自分達だけで楽しむのでなく、日本には修学旅行という西洋には例を見ない制度を持っていますが、こういう制度を大切にしながら、家族旅行と併せて、旅の楽しさを若い人達や次の世代に伝えてゆきたいと思います。

5.『私たちは観光が生きた生涯学習の教室であることを語り合い、旅に中の「学び、遊び、喜び、結び(これを旅の4つの"び"といいますが)」を広く、長く育てていくことを、いきがいのひとつと考えます。』・・・経済的な側面から見るだけでなく、子供を育ててゆく喜びと同じように受け止め、観光を考えてゆきたい。

6.『私たちは恵まれた三河の風土や人材、ゆかしい歴史や賑わいを生かして、美しく生きることの意味を発見し、一人ひとりが友人・知人を招き、迎えることを実行します。』・・・戦後50年、日本人は、「いかに豊かに生きるか」を問いつづけてきて、ほぼそれは達成されました。そして、それが達成され気が付いてみたら、政治家も役人も、あらゆるところでやることが汚い。
そこで私たちが、これから問わなくてはいけないのは、「いかに美しく生きるか」という価値の転換をしなければならないということであります。
以上が、私の岡崎の観光ルネッサンスと題するに試案でございます。

4.江戸の旅
旅の歴史、例えばお伊勢参りのように、1年の稼ぎの何倍もの金をかけて行われた日本人の旅は、どのようなものだったのかについて話して欲しいというご要望がありましたので、少しお話しいたします。
まず、鎌倉時代から日本の信仰を伴った旅は、脈々と続いてきております。そして、江戸時代にはいりまして、五街道が整備され、その宿駅を整備して行くわけです。それによって、安全に旅行が出来るようになりました。旅の危険はまだ有りましたが、女一人でも旅が出来るような環境となりました。
また、長崎の出島に来ていたオランダ人たちが1〜2年に1度の割合で江戸幕府に西洋事情をお話に行くチャンスがあり、将軍が変わるたびに朝鮮から朝鮮通信使が江戸へ300〜400人の規模で往来し、行く先々で土地の名士や文化人と漢字を使って交流を行っています。この朝鮮通信使の記録の中に『矢作橋は、当代随一・・・』との記述が残っております。外国人にとっても、そうした公的な旅だけでなく、私的な旅行ですら安全であり、ケンペルを含めた海外の人が書いておりますのは、当時のヨーロッパに比べ、日本がなんと安全な国なのかということです。当時のヨーロッパでは、旅は命懸けで、女の一人旅など死にに行くようなものでありました。だからこそキャラバンを組んで物を運ばなければならなかったのです。
伊勢参りでは、女だけの団体もありました。いかに日本のたびが安全であったかを物語っています。江戸時代は、伊勢参りに代表されるように、信仰を主目的としつつ多くの庶民が旅を楽しんだ時期であります。当時1日の行程は徒歩で40kmで、江戸からですと片道13日かけてお参りをしました。60年に一度の『抜け参り』には、半年間で実に200万人とも300万人ともいわれる人がお参りをした(当時の人口の1割程度)といわれております。それは、今お話した安全と言うことが基盤になっており、信仰と言う名目であるならお役所も大目に見ましょうということでもありました。東北方面から伊勢参りに来た人の例で見ると、江戸を経て、伊勢参りを行い、そのついでに大阪、讃岐の金毘羅さんをお参りし、京見物を行い、中山道で善光寺をお参りして帰ったという、大変な距離を歩いたわけで、健康でなくてはこれだけの旅は出来ません。信仰・観光・健康の三つの「こう」がこの時代の旅のキーワードで、さらに「講」を組んで皆で一緒に楽しく旅に出たわけです。
いずれにしても、参勤交代や、伊勢参りなどの旅により、日本中の富の配分が上手く行われたという側面もあります。そして、一般の旅行者の旅日記、旅の出納帳などもたくさん残されています。広重の東海道53次を始めとするの絵画や、十返舎一九の東海道中膝栗毛等の読み物が盛んに出版されております。これは、女・子供を含め、庶民のレベルで文字を読み書きできる人の数も諸外国と比べ相当多いことを物語っています。庶民の旅は、決して参勤交代のおこぼれというわけでなく、こうした豊かな、成熟した、時代背景の下で、江戸時代の旅が大きく発展したと私は捉えております。
戦後50年、豊かな社会をつくり、成熟社会をつくり、長寿社会をつくってきたときに、また、新しい旅が生まれるだろうと私は思います。教育のうえでも旅の果たした役割が大きく、私は生涯学習の中での旅を研究テーマとしておりますが、その効果を更に検証してまいりたいと存じます。(以上)




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