第2回産学研究会議事録(要旨)





第2回産学研究会議事録(要旨)
平成11年8月27日 14:00〜16:00 会場:愛知産業大学 参加者34名

岡崎商工会議所コーディネート活動支援事業
講演「人がまちを創り、まちが人を創る」
講師:愛知産業大学造形学部 教授 田島 學 氏

実は私は岡崎にまいりまして、6年目を迎える状況でございます。したがいまして、ここにおられる方々からは新参者ということになるかと思いますが、新しく来た者なりに見なければならないと思いますし、また、新しく来た者でなければわからない視点もあるかもしれないので、そういう視点でお話できればと思います。
お手元に1995年の2月18日資料ということで、岡崎市公開講座でお話しさせていただいた時のメモとか資料をお出ししております。左側の方が好ましい景観、右側の方が好ましくない景観ということで、実は当日公開講座に出席いただいた市民の方々、若い方から年配の方々までいましたけれども、50名の方々につきまして岡崎市の地図をお渡ししまして、そのうえで岡崎市の好ましい景観、好ましくない景観をご指摘いただきました。従いまして左側の細い線でたくさん集まっているあたり、岡崎城とその周辺ですとか、東公園ですとか、北に方の滝山寺、その北の方の住宅団地、それから市の公園といったようなあたり、あるいは、右下の方の本宿あたりにも入っておりますが、こういうふうに好ましい景観というのが、たくさんご指摘いただきました。
一方で右側の方がその時好ましくないという景観があるとすればということでご指摘いただいたところです。これでいきますと西の方から矢作のあたり、国道1号そして残念ながら中心部の商店街のあたりが入ってきて、岡崎インターとか、その下の方のJR周辺が好ましくないという指摘をたくさん受けているわけでございます。
なぜこういうことを行うかといいますと、私が勝手に岡崎市を考えたり、何かをするということでなくて、市民の方々が実際にどのようにとらえているか、それを知るということがまず景観を考えるうえでの第一歩でありますので、そういう意味でこういうご指摘をいただいたわけでございます。
歴史的な空間について、この時指摘された50名の方々はかなり高い評価をくだしておられることと、もう1つは自然の素材が活かされている空間、北の方からそれぞれ谷ごとのそれぞれの空間がありますし、矢作川についてもでております。そういうことから、岡崎市民の好まれる空間というのは、自然の景観、そして自然を活かした歴史的な景観、そういったところが好ましい空間であって、右側の方が好ましくないというのは、どちらかといえば、主として戦後と言っていいと思いますが、戦災を受けた岡崎の中心市街地、矢作、JRの岡崎駅の区画整理とか、その他の人工的な空間がこんなふうにあがってきていると判断しております。もちろんインター周辺とか、そのあたりも入っておりますから、すぐおわかりいただけると思います。
こういうふうにして、好ましい景観、好ましくない景観がでた時に、どういうふうにして対応したらよろしいかということが私なりのその時の立場でありましたけれども、その後5年近く経過するわけでございますが、あまり大したことができないで今日に至っていますけれども、今日ここに30名からのまちづくりに関心にもっておられる方々の前でお話しできるということで、私にとりましてはたくさんの見方をこの際いただくということになるものですから、たいへんよろこばしい機会というふうに受け止めています。
今日のテーマといたしまして、「人がまちを創り、まちが人を創る」、とありますけれども、後半の方の「まちが人を創る」というところで、好ましい景観、好ましくない景観のところで子供たちがどんなふうに育つだろうかという、そういうテーマでお話ししていきたいと思います。
最初の方の「人がまちを創る」というところでは、もっと原点にかえってまちというのは、都市というのは、どういうものかというものを最初にお話しして、皆さんの共感をいただいてから後のまちが人をつくる、その意味というか、その重大さというか、そこらへんのところでお話をしていきたいと思います。
使いまわし資料は主として、筑波大学時代あるいはこちらに移ってから、実験をとおしてわかってきたことを踏まえてお話申しあげますが、それ以外に下の方に書き出しました4点の資料がございます。これはビデオでございますが、たいへん私が影響を受けたものございます。
1番というのは、その都市がうまれ、文字がうまれたという「NHKの大博物館」のビデオ資料でございますが、この中でメソポタミアでウルというまちがありますが、そのまちがどのようにしてできたのかというのがあります。2番目の「縄文への旅」(NHK・よみがえる三内山遺跡)というのは、これはつい最近のことで、皆様ご存じのとおり、三内山遺跡が青森で発掘されまして、どんな遺跡かということがおわかりいただいていると思います。2番、3番は三内山でございます。4番目が、その3つの視点を束ねるうえで、たいへん有効な、大事な資料になります。わかりやすい材料ということで論文ではなくて図版でございますが、今日お示しできないのが残念でございますが「気候変動と歴史年表」ということでNEWTON別冊に使われた資料でございます。最初にビデオから入らさせていただいて、そこからご出席の皆様に一緒にお考えいただきます。
1つだけ申し上げておきますことは、実はメソポタミアの都市が起こった、うまれたというその時期と三内山の時期がほとんど同じであることを申しあげておきたいと思います。今から5千年前にメソポタミアで都市がうまれて日本列島で三内山遺跡がうまれてきております。なぜだったのだろうかというなぞを解くのが4番目でありまして、その段階でなぜ都市が必要になったのか、都市がどんな役割をしたのか、ご理解いただけるというふうに考えている次第でございます。それでは、最初にビデオに入っていきたいと思います。
(ビデオ放映)
最少にウルの遺跡がでてきます。
資料の1、2、3を見ていただきました。さて、1、2、3に共通の5千年前が何を意味するかということにつきましては、4番目にございます安田善憲先生が常におっしゃっています環境考古学という言葉であります。いろんな花粉の堆積状況ですとか、そういうところから地球の気候を推計しようと進めていらっしゃるわけですが、その結果として、1万年前人類は農業を見つけだしたということになります。それを農業革命というふうに、安田先生は命名しております。それから、5千年前がいま申しあげている都市革命として都市がうまれたとしているわけです。それを環境考古学の立場からどう説明してするかということになるかといいますと、1万年前人類が農業を見つけだした時というのは地球は現在の平均気温から5℃以上低いというたいへんな寒さに襲われておりまして、人間が生きていくうえで、パン小麦であるとかそういう栽培植物をみつけだして、それによって生きてゆく方法を見つけ出したと解釈しておられます。
5千年前の都市革命の時、それまで暖かった地球がまた寒冷化現象が襲ってきて、人々は暖かいところでのんびり過ごしていたわけですけれども、それができなくなってどこかに集まらざるをえなかった。というふうに解釈されます。その集まってきたところがナイル川とか、メソポタミアの2つの川、それからインダス川、黄河とされていたわけでございます。四大文明の発祥の地ということで、それぞれの大河のほとりが文明発祥の地とされておりまして、この大博物館の先ほどの都市がうまれたウルのあたりのことが発表されたのが、ご覧のように1990年でありますから、いまから10年ほど前にはそのことが知られていたわけでございまして、いまウルの遺跡のビデオを見ながら、なるほどと思うことと、もう1つは都市がうまれるというあたりが垣間見えてまいりました。
アフリカ大陸は4回みどりだったそうでありますが、緑の平野で生きていた人たちが住めなくなって生きていくための場所を探して大河のほとりに集まってくる。大河のほとりに集まってきた人間集団の規模が増える。その人たちは水を使ってナイル川もメソポタミアも、インダス川も、みんな水を使って農業に集中します。したがって先ほどビデオにありましたように、ウルの場合には1粒の麦を蒔けば、80倍の収穫があった。現在でも20倍くらいしかとれないそういう収穫が80倍という予想できないほどの収穫を誇ったわけで、そういうことによってナイル川とか、メソポタミアの平野の河川部分に降りてきた人たちも含めた、たくさんの人たちが生きていくことができて、ウルの場合でも、周辺人口25万というのが、先ほどでておりました。
要するに、水を治める、運河を作るというのは、たいへんな人の知恵がいるでしょうし、知恵だけでなく、たくさんに人数が必要になるでしょうし、そういう人たちが都市を中心として、システムとして機能している。たくさんの人が集まった時にそういう治水事業や農業を進めるとか、たくさん農業でできた食物というか、それをどう加工するとか、加工するだけでなく、具体的にどのように売買するとか、あるいは生産手段として使う農器具ですとか、着る物を作るとか、1次産業から、2次、3次産業まで伴ってくる。それだけの人がたくさん集まった結果として生きていくために、農業の収穫をあげましたけれども、それ以上にそれを支える人間集団がウル場合でも3万5千人いて、その人たちの中で、その産業を支える、それだけでなくて文学が生まれ、あるいは科学が生まれ、例えば、地球が丸いということをエジプトの人達は数千年前にわかっていたようですから、そういう意味でのいろんな人類の文化というのが、その時点で起こっているということになります。
言いかえれば、都市現象というのは地球の寒冷化に伴ってみんなが生きていくために、身を寄せ合って知恵を出し合った空間、それが都市であったということになります。ナイル川とか黄河とか、黄河は最近では揚子江の長江の方がむしろ5千年前の遺跡が見つかりだしまして、黄河の方がもっと時代が下っていたものですから、うまくタイミングが合わなかっんですけれども、安田先生はじめ京都の方々、あるいは日本文化研究所の方々が揚子江で、長江で最近5千年前遺跡を発掘されていますから、やはり中国大陸でも5千年前に人間集団のそういう集中があった。それが三内山でつい最近わかってきたことになります。5千年前、日本列島においても人間が生きていくうえで、集団で過ごさなければならない。例えば、先ほどビデオにありました高さ20m近い巨木を立てるのには、何百人の人たちが必要となるわけですし、その何百人というのは三内山に住んでいる500人くらいでは足らないわけですから、周辺の人間集団の助力が必要なわけでしょうし、そういうものを集める力があったことになるでしょうし、逆に三内山はそういう意味で周辺の人たちの中心的な存在でだったらしい、ということがわかってきているようです。
ですから、巨木を立てる、あの巨木もクリでありましたけれど、あのクリは自然のクリだったとして、集落のまわりにはクリの木を植えて、それから他の植物も栽培植物として育てている。それが1500年続いたということが発掘からわかってきているとすれば、私たちは奈良時代から1500年しかたっていないわけですから、そのくらい長い間三内山は続いたということになります。クリの木がそんなに生きることがないわけですから、何代もクリの木も栽培し続けないといけないでしょうし、そういう環境も維持しながら、生きていく手段というのを三内山の人はもっていたということになります。
ただ、残念ながらウルの人たちは文字をつくりだしました。したがって、さっきのように例えば社会保障として母子家庭にはどうするとか、あるいは収めた穀物とかを個人別に記録してあるとか、機織物の工場で、職人たちにどういう支給をしたのか、ということも記録されているわけです。残念ながら三内山には、文字がまだわかっていない状況であります。考えてみれば、文字といというのは人間が頭の中で、覚えきれなくなった時に必要になってくるとされています。人間の脳の能力としてある量をオーバーしてしまうと、もう覚えきれなくなる。その段階で、文字を見つけだした人はそこで本という記録ということで残っていくわけで、そのウルの遺跡は現在でも読みとかれて、そのいろいろなことがわかってきている。文字そのものがやはり都市が生み出した1つの産物であるということになります。残念ながら三内山はまだ文字が見つかっておりません。1500年も続いたのに、どうしたんだろう、というのが関係者の一大関心事になっているようです。
そんなことを含めまして5千年前の地球の寒冷化に伴いまして人類は身を寄せ合いまして、助け合って、力を出し合って、知恵を出し合って、集団居住の空間として、都市、まちをつくって、ただつくるだけでなくて、そこで文化といわれるような、そういうところまで人類の知恵は働いていたということになります。ものをつくるだけでなくて、そういう文化をうみだした、それが都市現象であったということになります。
そういう都市現象というのは、日本列島の場合には、藤原京、奈良、平安という新首都建設時代といっていたと思いますが、そういうニュータウンがたくさんできた藤原時代から平安時代に至る100年かそこらの期間があり、その後1500年代城下町という記憶が新しいところで、岡崎も城下町もあるわけで、そして明治のいろんな変革期を経て、現在に至っているわけですが、そういう都市現象を見た時に、いまの安田先生の環境考古学からしますと、例えば新首都建設時代に日本ではたくさん古墳が作られたとき、実はグラフを読みますと、地球寒冷化が起こっています。やはり、古墳をたてること、つくることができる大王権が存在して、そこで水をコントロールしていろいろな生産を集中化させるようなそういう時代であったわけで、その結果としてたくさんのニュータウンとしての首都がつくられました。一方で城下町の時代にもやはり地球か寒冷化に向かっておりましてわかっているだけで、お米の生産が2倍になった時期とされています。それまでの、平安なら平安といった時期に比べて、城下町建設の時期というのはお米の収穫が2〜3倍に増えた、ということは、それだけ人々は食べていくための農業に力を入れて、生産量をあげたということになります。結果として、流通拠点としての城下町が位置づけられてくるということになるわけです。
環境との兼ね合いで都市現象を見るというのは、たいへん説得力のある見方になっているかと思います。
それは置くとして、その今まで申しあげました城下町までというのは主として第一次産業としての農業を主体として農業をたよりとして、困った時にそれに力をいれて収穫をあげる。その結果として集団居住の空間も可能になってきた。いま申しあげたような都市現象の説明ができるかと思います。ヨーロッパの場合でも、やはりメソポタミアからギリシャ、ローマと移りますけれど、やはり中世都市という存在がありまして、それから、その後の近世の華やかな時代というのがありますけれども、たまたまバイキングという話を思い出しておりますが、バイキングの人たちがやはり現在のデンマークからスペインとか地中海に入って、イタリアのシチリアにノルマン王国というのをつくりますけれども、それがやはり10世紀前後くらいになります。なぜ10世紀前後かということで、安田先生の環境考古学のグラフを見ていますと、やはり地球の寒冷化に伴って、中世都市に向かってヨーロッパは動き出しだました。ヨーロッパの場合も、小麦の生産高がギリシャ、ローマ時代よりも6倍くらい増えた時期、その時に中世都市が生まれてきますけれども、バイキングの人たちが、あの寒いなかをなぜ船出したのかを、それは、ロマンとか話としてはわかるわけですけれども、やはり地球環境の厳しさのなかで、太陽を求めて移動したというふうにいったほうが説明したほうがわかりやすいかと思います。それで、ノルマン王国としてシチリアにいろいろなまちをつくっているのが、いまも残されていることはご存じのとおりでございます。  こんなふうにして人類は、地球環境と対応しながら生き永らえてゆく手段としての都市を選んできております。ただ、現代都市と考えてきた時に、私たちは地球環境の厳しさのなかでみんなで助け合った、そういう都市現象というのを忘れて、拡大の論理のだけで、現代都市はいま成り立っていることに気がつくわけです。拡大の論理は実は中世くらいから始まっているわけで、ヨーロッパの中世都市では収穫が先ほど申しましたように6倍くらいにあがります。結果として拡大の論理で、また自然を従えて、人間がその仕組みの主になるようなルネッサンス以後の自然観というのも、芽生えてくるわけです。
日本列島のなかでも、そういう城下町という、2倍くらいに増えた時ですから、ささやかな増え方だったかもしれませんけれども、まだ周辺環境と一緒に生活したというか、岡崎の場合も周辺の農業と山林と関わりあいながら、自然のなかにまちを位置づけていたわけですが、現代都市岡崎は大きな工業地帯も抱えておりますが、商業も栄えましたし、たくさん人も住みこんでまいりました。現在の空間になっておりますが、岡崎以上に名古屋、あるいは名古屋以上に東京、大阪というのがどんなに過大な都市になっているかはおわかりかと思います。拡大の論理だけで、大きければいいだろう、新しいものがいいだろうというその結果が20世紀の結末を迎えたいま言えることになるかと思います。
私たちは、都市というのが人間の必要性によって、つくったその必要性というのは、あくまで地球との対話のなかで、つくってきた都市であったわけですが、現代都市はその地球環境を忘れて人間の論理だけでつくりあげてきたまちになってはなっていはしないか。銀行も関係している方がいたら申しわけないですけれども、商業の方々も儲ければいいという拡大の論理だけでお考えはなかっただろうか、結果としてバブルという悲惨な事態を迎えました。何十兆円というお金をもし使っていたら、例えば、もと居ました筑波学園都市はわずか2000億円であります。ですから、10兆円ならば50の研究都市が、20兆円ならば100の研究学園都市が出来ていたたわけですが、リゾートにしてもたくさんのそういう空間ができていたでしょうけれども、それがすべて何十兆というお金が空中に消えてしまって私たちはいまを迎えているわけでございます。
人間の論理だけで、節度なき論理だけで、倫理なき論理だけでくるとどういう状態になるか。人が都市をつくる、確かにいろんな都市をつくってきましたけれど、現代都市ほど悲惨な都市はないのではないか、それが21世紀を迎える前に私たちが反省しなければいけない大事なことだろうというふうに思っています。
さて先、ほどの主題に戻っていきますけれども、そういう現代都市、結果として先ほど皆様のお手元で見ていただきました、好ましい岡崎の景観、好ましくない岡崎の景観、まちが人を創るというのは、例えばここにおられる方々は、皆様岡崎で生まれ育たれた方々が多いかと思いますが、そういう視点でご自分の小さい時を考えていただき、ご自分の小さい時とどんなふうに変わっているか、好ましい状態で変わっているか、好ましくないのは何なのか、考えるきっかけにしていただければいいと思います。東海道藤川宿の人で昔はその川で遊んだのですが、いまは遊べなくなったという声もありまして、そんなことを含めまして、これからまちが人を創る、どんな人を創ったか、ということを中心にまとめていきたいと思います。
ある日、学生を連れまして、まちを調査ということで車を走らせておりました時、後ろの座席から懐かしいという声がありました。ちょうど車は山すそにさしかかっておりました。懐かしいという声を聞いて、よく聞いみるとその学生の生まれ故郷は長野県の小布施であります。小布施町、栗羊羹などで有名なまちでございますが、その小布施のまちは信濃川の流れにそって、両側に山並みが迫っているところです。また、ある日、コンパをした後、明け方になって車を走らせる学生たちがいて、筑波にいる時でしたら、それは太平洋の海岸に出て、初日をみるという学生達がいました。いろいろ聞いてみるとその学生出身はやはり海辺とか、大きな川のそばとか湖のそばで、幼少年期を過ごしているということがわかりました。そうしたものを含めて、私が関心をもったことは、まちが人を創ることにつながるわけでございます。そういう考える1つの材料として原風景というものがあります。人それぞれ原風景というのをもっていることになるわけでございますが、原風景という言葉は、一般にわかりやすくでてきたとすれば、評論家であります奥野たてお先生、「文学における原風景」というのがあります。出版は1972年ですから、かなり古いわけですが。奥野さんは文芸評論家として太宰治論をを展開した方でございますが、その奥野さんがその文学における原風景を表わすきっかけになったのは、太宰治の生まれ故郷の青森、弘前を旅した時の思い出につながっているようでございます。それまでは、太宰治の故郷を見ることなく、太宰治論を展開してきました。何と自分があさはかであったのかということを気がつく訳です。というのは、太宰治の作品に中に、奥野さんは太宰治の故郷津軽に1度も行ったことがなかった。文学作品と風土、文学者と故郷の関係などに思いいたす余裕がなかったのだ。しかし、次第に各地に旅行する機会をうるようになり、文学者の故郷や文学作品の舞台に直接訪れて僕はいわゆる名作の旅とか、文学散歩とかいう趣味的観点とは違う強烈な感銘を風景、風土に覚えはじめた。そこで、いまの原風景論が展開されるということになります。なお、この本は建築学会の記念の年に、建築学会の賞を贈られた作品になっております。そういう位置づけになるくらい、その奥野先生自身の反省でもあったけれども、文学者の原風景がいかにその先に影響を与えているかということをいろいろな作品にふれながら、太宰治だけでない他の作家にふれながら、書いておられます。その他に画家について、画家の原風景ということで名作の原風景ということで書いておられる方もいます。あるいは、原風景論は続くわけでございますが、1つ大事な調査がありまして、日本の風土というタイトルで表わされた報告書でございますが、これは、地理学会とか、心理学会とかそういうのを含めて、9つの学会で調査をした結果であります。9学会連合としてありますが、そのなかで心理学者で調べた日本の風土の中で、青少年期の原風景という記録があります。青少年の心の風土としての原風景ということで心理学者の星野先生と長谷川先生の2人の共著の論文があります。そこから、でてきますことは、その対象は短大の保健関係あるいは育児関係の女子学生、北海道から鹿児島まで、千数百名の女子学生の調査であります。というのは保健衛生ということで、ある興味が一致しています。そういうことと、短大の1、2年生と年齢も同じなものですから、たいへん貴重な調査になります。1つの県あたり50名から100名という統計処理に耐える人数であります。結果として、原風景というのはだいたい10歳までに形成されております。その原風景というのはどういうことかといえば、嬉しい時、悲しい時、自分を勇気づける、そういう風景として、人は原風景を持つ。あなたの原風景をと問い掛けているわけですが、そうしますと、99.6%くらいまでが、10歳までに原風景をもつとされているわけです。その原風景のなかに先ほどの筑波の思い出につながりますように、山野辺で育った子は山野辺に原風景をもち、海岸で育った子は海岸に原風景をもち、都会で育った子は都会に原風景をもつ、田園風景を見て育った子は田園風景に原風景があるということがわかってまいりました。
そういうことを踏まえまして、私の実験室で進めたことが、調査の中で東京都の三鷹市の市民にに調査をしたわけです。市民の中学生の父兄ということで調査をいたしました。そうしますと、都市で育った人と田園で育った人とそういうふうに分けまして、真ん中に三鷹市に育った人をいれてみました。緑についてだけまとめてみますと、都市で育った人は、例えば、整然とした並木ですとか、そういう都市的な空間に関心を持ちまして、並木道、それから広々とした芝生、その整然とした現代的なそういう空間というのが都市で育った人が好む空間です。田園風景を見て育った人たちは、例えば、雑木林に象徴されるような好みの空間の中に占めてまいりました。こちらのまちの中の並木道と違う雑木林とか、大木が茂っているとか、散歩空間でも曲がりくねったような空間が、田園風景で育った人。三鷹市で生まれ育った人たちは、国木田独歩の武蔵野も見ていますので、そちらも好みであるし、一方で大学の街路樹であるとか、まちの中の両方とも見て育っているわけですから、そういうことからすると、両方の好みというのが分かってきました。
こんなふうに10歳までに、どこで育ったか、それと好みの緑ということで、実験をしてみると、こういう結果が得られたわけでございます。ということからしますと、例えば公園をつくる時に、三鷹で公園をつくる時に、昔から住んでいる人のところでは、国木田独歩の雑木林もよろしいし、井の頭公園のそういう雰囲気もよろしい。そして都市的な風景で育ったというのは、新しい団地とかそういうところがあります。そういうところで育った人のところでは、並木道とか、広々とした芝生とか、きれいな花壇のある公園ということになるでしょうし、田園風景で育った人が多い地域だと、独歩の雑木林が残っているとすれば、植えるとしてもそういう空間がよろしいという、三鷹市の公園計画に影響する結果を得たことがあります。したがいまして、公園というのが建設省が言うような単なる面積の問題でなくて、またどこでも平らにして公園をつくるのではなくて、地形にあわせながら、一方でそこに住んでいる人たちの好みに合う空間をつくる必要があるだろうと思います。
ただ、原風景ということでここで決まってしまうのかというと、必ずしもそうではなくていろいろな風景体験というのがその後出てくるわけで、そういう風景体験というのが、そういう人たちの価値感に影響するということが言えるかと思います。それはどういうことかといいますと、群馬県の前橋の中学校の父兄たちに調査というかアンケートをお願いし経験したことでありますが、その時わかってきたことは、原風景は原風景として、中学、高校でどういう道を通ったかということが、その後の緑の景観に対してやはり影響をもっていたことがよめてまいりました。例えば、中学は小学の延長線上ですから、原風景の空間の影響でよろしいわけですが、高校となった時にまちにでてきます。したがって、その高校がどこにあるか、高校に通う通学路がどういう環境かによって影響がでてくることがわかってきました。例えば、原風景で田園が広がっていて遠くに山並みがあるというのが、群馬県の人たちの基本的な原風景であるわけでありますが、その中の学校がやはり現代的な空間で街路樹があって公園があって賑やかなまちがあってというような都市空間のなかを高校3年間あるいは中学を含めてなら6年間になるでしょうか、そういう通い方をしている時には、好みがやや変わってきます。山並みのある田園風景だけでなくて、そういう現代的な街路樹のある風景にも関心を寄せる人と、いやそれでもやっぱり山並みの方がいいと田園風景に関心を持つ人に別れてきました。したがって、原風景で1度つくってしまえば、それでおしまいということではなくて、その人の貴重な一生の人生体験のなかで、何かおりに触れて強烈な印象を受けるような風景体験があれば、その人の価値感というか、景観に対する価値感は変わってくるということがわかってきました。したがいまして、その結果を考えますと原風景だけで、子供たちの原風景だけで、その人の人生が決まってしまうということを考えるのには、あまりにも重大な事実でありました。救いとなったのはその後の人生体験の中の風景体験というものを何らかの形で変えていく可能性があるということになるかと思います。ですから、まちが人を創るということは、景観に例えていきますと、原風景形成にまちが大きな役割をします。したがって、その人が大人になって、30代、40代、50代になって考える緑の価値に対して、原風景が大きく影響していることはわかりました。しかし、その後のその方が例えば都会にでられるとか、何かの段階で外国を見るということを含めまして、印象に残る風景体験を積み重ねれば、原風景プラスそういう価値感の変化がある、見える。私たちにとっては1つの力強い材料になると思いますけれども、何らかの形で軌道修正、あるいは軌道をさらに良い方向に延ばしていくことができるんではないかというふうに考えてきております。ですから、まちが人を創るというのは、いままでの現代都市、私たちがつくってきましたえれども、その逆にそのまちが人をつくる場合にまだまだ何か可能性が残されているということを皆さんと一緒に考えていきたいと思います。そこで今日ご挨拶いただいた草間先生がコーディネートということで、お話してらっしゃるということで、そういう方向でお話をもっていきたいと思いますが、そういうまちづくりの時に、「まちが人を創りる」、そのまちを岡崎のような、例えば好ましい、好ましくないというこんな分布がある時に、どんなまちにしていくかという方法の問題になるかと思いますが、そういうことについて若干、他のまちの話として紹介していきたいと思います。
奈良県奈良市もちろんご存じと思いますが、その歴史遺産につながっていきました。世界歴史遺産として、去年認められたわけですが、そのきっかけになったのは、東大寺をはじめとして国宝建築がたくさんあることですが、国宝建築が少ないのに歴史遺産の空間に入ってきているところがあります。奈良県奈良市奈良町の方、会長は女性の方でいつも着物姿で通していらっしゃる。奈良県奈良市奈良町というのは藤原京から移ってきたお寺とされているわけで、そのお寺がもともと曽我氏のお寺を母体としてその後国営のお寺になっていたわけでございます。大官大寺と称されるその藤原京のお寺をさらにもってきまして、ただそれが焼失してしまっていま本堂跡とか大伽藍跡には民家が立ち並んでいるわけですが、いまでも行きますとまち並みとしてそんなに、八帖の方がいいかもしれませんけれども、確かに古いことは古い。それから、いろんなすばらしい仏像がいろいろな家々に残されている、いうそういうのを集めて庚申堂か何かで展示してありますが、その町内会の会長さんが女性で、何がはじまったかというと、その20年前といっておられましたけれど、毎日といっていいくらい近所の家があちらこちらで壊される。古い町並みが壊れていく。もともとそのお寺さんの門前町として生きていた空間であるわけで、それが歯抜けのようになった状態で、いいのかという、人間困った時にみんなの気持ちが一致するわけで、その結果としてまち並みを残そうではないかということになって今日にいたったようでございます。いろんな会合でそのご婦人の会長さんは常に積極な発言をされ、経験を話してらっしゃるわけでありますが、そういう地道な努力というのは実は奈良市の歴史遺産指定ということに関わってくる、歴史的な遺産があるわけでなくて、それに対してまちの人たちがどういう気持ちをもっているのかも大事な判定材料になるようであります。  同時に、鎌倉もそういう場所になりましたけれども、鎌倉はお寺ではなくてまわりを取り囲む自然の稜線、尾根ですが、尾根を鎌倉武士たちは要塞につくりあげておりまして、手前の方は自分達が動きやすいように峰々を伝うそういう平らな道をつくって、外側は10m、20mと切り立った崖のままにしてあるわけですが、それをやはり残すと、それが歴史遺産になっていますが、それについてもやはり鎌倉のまちの人たちの市役所だけでなくて、まちの人たちの気持ちがあるということで世界歴史遺産に同時に指定されております。
富士山は歴史遺産ではなく自然遺産になってよさそうなもんですが、皆さんが新幹線で使われるわかりますように、富士山麓はモウモウたる白煙と紅白の煙突の林で、そのままでは自然遺産にはなりそうもない状態であることはおわかりのとおりであります。
もう1つの話は、朝鮮、韓国の大韓民国の釜山のまちの話でございますが、釜山の港、韓国では2番目の都市でありますが、2番目のまちに都市内に高速道路を入れるということで、川に沿って高速道路を入れて港に至るという、湾岸道路に至るというそういう計画があがりました。その段階でそれでいいのかという声が釜山の市民からあがったようでありまして、結果としてもし高速道路ができれば、騒音がまちを満たして、人々が川辺にでて、夕日を眺めていた静かな空間に対して、そういうたいへんな騒音と排気ガスの空間がでてくるし、目で見ても高架橋がでてくるわけですが、それは好ましくないと市民は気づいたようでございます。その結果としてその声があがって、市民のNPOの連合のような組織があるようでございまして、そのNPOが釜山の場合、250くらいあるんだそうです。それはいろんなNPOで、子供たちを大事に育てよういう会もあれば、あるいはお年寄りのところもあれば、あるいは景観というグループもあるようで、250のNPOがある。その会長さんが女性でありまして、その高架道路の問題があがった時に、NPOの会長はまず学者グループのNPOに声をかけます。こういう問題はどうしたらよいか、もう1つは、そういう問題提起をしてきた周辺の人達にもNPOがありますから、関係NPOを集めて学者グループとの相談が入る。結果として、その学者グループもそういう計画ではなくて、川岸の高架ではなくて地下に埋めようではないか、地下に埋めれば、地下の道路にすれば、今までどおり、まちの人は川岸にでて夕日を見ることができるでしょうし、散歩もできるでしょうし、そういうふうにしようということで、その提案が市から政府も動かして、都市計画を変えたという。都市計画を変える仕組みは日本と違うわけでありましょうけれども、基本的にはそういう市民のNPO、学者のNPOが一緒になって行政を動かして道を変えた。現在そういう地下の空間として工事が進行中であるという報告を受けました。たまたま筑波での教え子でもあったわけですが、たいへん心強い感触を得た思い出があります。
3つ目のお話は私の関係しております静岡県の清水というまちでありますが、その清水の景観調査をした段階で、やはりこういう好ましい好ましくないというのを清水の場合も実施したわけです。その時でてきたのは、清水の港であります。清水港は清水市の顔であるというのが9番目くらいあがってきたわけです。ところが嫌いな空間、好ましくない空間とした時に清水の港が1位にあがってきました。その当時の清水港というのは工業港になっていまして、、まわりは全部工場だけで、木材の貯木場もあるという、そんなところで煙突も紅白に塗られて、大きなクレーンも全部赤と白の航空識別可能なそういう色で塗られていました。殺風景な空間、水が汚いということでなくて景観上もそんなところでありまして、おまけに静岡県がこの港湾をつくっているわけでございます。静岡県の施設が上屋といいましていろいろ荷物をいれる倉庫ですが、それがオレンジ色でたいへん悲惨なことに、静岡県はみかん、ですから緑とかオレンジとか、静岡県のマークは青い富士山に縁取りにオレンジかなんか、その上屋というのがオレンジなんです。日本平に登って日本有名な空間として指摘された日本平から富士山を見ますと、あの三保の松原の美しい松と青い海原と遠くに富士山が白い頂きをもってそびえて、手前の清水港は赤と白の煙突がニョキニョキ、クレーンも赤と白であり、倉庫の上屋もオレンジとか何かで、これはどういうことかということが15年前、調査した時点で訪れた時、びっくりしました。というのは40年くらい前、清水あるいは静岡を尋ねていた時がありまして、東海道線が各駅停車で貧乏学生でしたから、各駅停車で停まりますと、その海岸の駅で、海水浴場が向こうに見えて、砂浜、松林が遠くに白い波のたつ、海岸があったわけですが、いまいらっしゃれば、そこはテトラポットが並んで、埋め立てて長さ500m近い、その船着場ができて、コンテナがぐるりと並んでいて、そして先ほどの紅白のクレーンが動きまわっているという光景であります。私自身も何とかしなければならないという実感でありましたし、そのよりどころになったのが市民の方のアンケートで、港は清水市のシンボル空間として8番か9番目に指摘を受けましたけれども、一番好ましくないのは、清水の港という位置づけになったわけであります。それに、これではならないと考えたのが、県の課長補佐の方でした。港湾局の課長補佐の方でありますが、そこで企画したのが女性の方々のアイデアを借りようということでレディースフォーラムということで自由に発想を求めたわけです。自由な発想の中で、色を塗り替えたらいいんではないかという話がありました。再び私もお手伝いして、市民とか港湾地域の事業者の方にアンケートをいたしました。結果としてでてきたのは、港湾関係の施設ですから、6年ないし10年で色を塗り替えるという大事な事実があります。もう1つはどんな色がシンボルかと問い合わせますと、白と空色であります。要するに、白と空色というのは富士山を眺めた時とか、三保の松葉から太平洋を見た時とか、あるいは清水の風土であるわけで、それがアンケートでもでてまいりました。市民からもまわりの事業者からもでてきました。それでシンボルカラーを白と空色の2色にして、あと港湾関係の施設をその6〜10年で塗り替える時に、こういう色にしたらどうかという提案をいたしました。それで協議会が発足しました。それから、5、6年が経ちまして、いまほとんど塗り変わってきておりまして、いらっしゃっていただければわかりますが、白いクレーン、アクセントとして空色や青系統が入っています。県の上屋もようやくそのオレンジ色を全部塗り替えるができました。壁は白を基調として、屋根は青を基調に入れ替わりました。民間の施設でも、中部電力とか、日本軽金属の100mを越える煙突が白で、それにアクセントとして空色として塗り変わってまいりました。今年8月4日に100周年記念を迎えまして行事を行いましたけれども、港に人がでてくる、工業港でありましたけれど、そういう港としてでてくるということになってきております。それも、私一人の、あるいはアイデアをだした、塗り替えようということだけでは塗り替わらないわけで、先ほどのような市民の声としての、困った、それはまずいのではないかと、それを受けた県の人たち、そしてアンケートに答えてくれた人たち、それを実施しようという250からの会社の方々、そういう方々の地道な年を追っての努力の結果として100周年を迎えているということになっております、ようやく私も肩の荷をおろして、もう大丈夫ではないかと考えているわけでございます。
それは置くといたしまして、やはりこれからのまちづくりというのは、岡崎市が実施するということではなくて、それをささえるというか、1つ1つはここにおられる方々お一人一人が問題意識をもっておられる、例えばここにおられる方は1つの目的をもっておられるから、1つのNPOとして、非営利組織として考えていく、岡崎市がいかにあるべきか、子供たちにどんな空間をもったらいいか、それはここにおられる方だけでなくて、お母さんたちもおられるだろうし、おじいさんもおられるだろうし、そういうたくさんのNPOができていいかと思います。そういうたくさんのNPOを束ねるのがコーディネータとしての草間先生をはじめとするみなさんかもしれません。そういう何かの展開が1つあってもよくはないかと思います。
市役所でも数人の都市計画担当者だけでは対応しきれないわけでありますから、ここにおられる方々が、あるいは100も200もできるNPOというのが岡崎市を考える大事な組織になっていくわけでございます。そういう方々、そういうグループがあってようやくまちづくりということにつながっていくというふうに考えているわけであります。このことは岡崎市の都市計画課の方に報告書としてだしてありますし、そういうNPOのうけとめる受け皿として市の方にもそういうセクションがなければならないし、先ほどの神戸の場合ですが、他の場合もそうですが、道を広げようと、この計画をどうしようという時に市が来て説明するだけでなくて、すでにNPOグループの中で話し合いの中で、地元の人たちと話しあいがついている場合があった。あるいはその地元の人と話し合いをNPOがしていた結果として、神戸市が計画説明する以前に、そういう地元の方の説得が済んでいたという、例もあります。21世紀のまちづくり、まちが人を創る、そのまちを何とかしなければこまった子供たちが育つ可能性があるわけで、登校拒否であるとか、暴力児童ですとか、いろいろでてきておりますが、そういう子供たちの原風景に、もし現在の岡崎市があってはいけないわけで、何とかしなければいけないという皆さんの気持ちが一緒になった段階で、先ほどあげた清水の例とか、釜山の例とか、奈良市の例とか、神戸の例にありますように、そういう方々、グループの力でまちを変えていく可能性がみえてきておりますので、21世紀のまちづくりはみなさんのまちづくり。それは皆さんがまちをつくることで、そのまちが次の世代をまた、つくる、育てるということになります。ここにおられる方のまちづくり、そのまちが皆さんのお子さんとか、お孫さんとか、ひ孫さんとか、そういう世代を育てていくということをお考えいただいて、進めていただければと思います。
私は岡崎市の都市景観審議会に関与しています。いま環境共生という計画にも参加いたしまして、岡崎市の基本方針みたいなところで、今までの知見をいれまして、少しは役割を果たせたかな、と思っていますけれども、先ほどのその自然空間は好ましいという岡崎市民の方々の好ましい景観と歴史空間は好ましいというそういうことも踏まえて自然も活かされる空間は皆さんの自由空間としていかされるでしょうし、歴史空間というのは藤川宿とか、あるいは本宿とか、岡崎市内の八丁とか、滝山寺とか、北の方もありますが、歴史空間は歴史空間として、活かしていくそういう計画に少しは私なりの職責は果たせたかなと思っております。
実際にお進めになるのは、市民の方々でありますので、地元に30名の強力な味方をいただいていると申し上げましたのは、そういう意味でございまして、一人で及ぶところではなくて、まちづくりは皆さんの手になるわけですので、どうぞご配慮よろしくお考えいただければ、もう1つは都市の時間というのは、かなり長くかかりますので、その点を考えいただいて、例えば清水がこれでは困ると思ったのは15年前でございまして、実際に何とか見ていただける状態までに、そのくらい時間がかかりましたし、再開発ですと20年〜50年かかるわけで、ここで皆さんがお考えになったら、すぐできるということではなくて、実はそれは都市の時間を必要としますので、お考えを固めていただいて、都市の時間をかけて、次の世代にも継承していただく、それをお願いして、私の今日のお話しとさせていただきます。




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