■徳川三代をささえた三河武士 vol.8

 

 土井 利勝
 (どい かつとし)

 (1573〜1644)

 家康、秀忠、家光の三代の将軍に仕え、老中・大老として幕閣の中枢にあり、徳川幕府260年の基礎固めに大きな役割を果たした土井利勝ですが、意外なことに彼の出生については明らかにされていません。
 利勝は徳川譜代の家臣・土井利昌の長男ですが、実は家康の母(於大)の兄にあたる三河刈谷城主・水野信元の子で土井家に養子に出されたとも、また晩年の風貌が家康に生き写しであったことや土井家の菩提寺(ぼだいじ)である浄妙寺(じょうみょうじ)(岡崎市中ノ郷町)の過去帳などから家康のご落胤(らくいん)として土井村(岡崎市土井町)に誕生したとの説も根強く残ります。
 それはともかく、利勝は幼少より家康に仕え、秀忠が生まれると6歳にして守役(もりやく)に任じられ、秀忠とともに家康の教育を受け成長します。慶長15年(1610)老中就任、元和(げんな)元年(1615)には家康の意向により、酒井忠世、青山忠俊とともに11歳の家光の教育係を命じられ、忠世の仁、忠俊の勇、そして利勝の智をもった優れた訓育ぶり、そして後の将軍職補佐ぶりは後世「寛永(かんえいの三弼(さんぴつ)」と称(たた)えられています。元和9年(1623)、秀忠が家光に将軍職を譲るとき、「天下とともに利勝を譲る」と語ったと伝えられ、秀忠の絶大な信頼を得ていたことが計り知れます。寛永15年(1638)大老就任。明敏で智略に富んだ利勝は、正保元年(1644)71歳で亡くなるまで徳川幕藩体制の確立に尽力し、徳川三代から重用(ちょうよう)され続けました。
 4人の息子は下総古河、三河刈谷、越前大野、下総大輪でそれぞれ大名となり、子孫は幕末までに3人の老中を輩出しています。三河時代の土井家の菩提寺・浄妙寺の大楠の陰には、利勝の母・玉等院が利勝出生の秘密を隠したまま今も静かに眠っています。

 《参考》浄妙寺所蔵土井利勝研究資料、戦国人名辞典(新人物従来社)、歴史と旅・大名総覧(秋田書店)他

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