■徳川三代をささえた三河武士  vol.6

 板倉勝重(いたくらかつしげ)(1545〜1624)


 京都所司代の代名詞のように称される板倉勝重は、関ヶ原合戦の翌年(1601)に京都所司代を命じられ、京にあって朝廷・公家工作、ならびに大坂方や西国大名の監視・支配強化に務め外交・行政手腕を発揮、徳川政権樹立に大きな役割を果たしました。
 板倉氏は足利氏の一族で、鎌倉時代に三河守護職となった足利本宗家に従い三河に入部、碧海(へっかい)軍中島城(現岡崎市中島町)を守りますが、頼重のときに松平氏に仕え、額田(ぬかた)郡小美(おい)(現岡崎市小美町)に住し、その子・好重の次男として勝重は誕生します。
 勝重は、幼時に現岡崎市中島町の永安寺に出家、一族の菩提を弔う定めでしたが、永禄4年(1561)父・好重が戦死、兄・忠重は深溝(ふこうず)松平家の家老職に出ていたため跡を継いだ弟の定重も天正9年(1581)遠江国高天神城の戦いで戦死。思いがけず還俗(げんぞく)し、家督を継いだ勝重でしたが家康に重用され、天正14年(1586)駿府町奉行、同18年関東移封に伴い関東代官、小田原奉行、江戸町奉行を兼務、そして慶長6年(1601)に京都町奉行を経て京都所司代に就任し、朝廷、大坂方との窓口として活躍することになります。家康没後の元和6年(1620)、高齢を理由に辞任し、後任に就いた嫡男・重宗を補佐しつつ京都堀川の邸に隠居し、寛永元年(1624)79歳で薨去。所縁(ゆかり)の中島・永安寺に葬られましたが、重宗が寺を現西尾市に移し、長円寺として今に残ります。
 子の重宗、重昌とも家康、秀忠、家光の徳川三代に仕え、孫の重矩はじめ4人の老中を輩出するなど、子孫も幕末まで徳川家を支え続けました。

《参考》新編岡崎市史、戦国人名辞典(新人物往来社)、歴史と旅・大名総覧(秋田書店)他

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